かつての大阪酒

2024年9月17日 (火)

かつての大阪酒 13 『菊千歳』 菊千歳酒造(株)

 こんな琺瑯看板があることは、いつも参考にさせてもらっている兵庫県在住の主婦安部さんのサイト“お散歩 Photo Album”にある“酒1 灘五郷”で知ってはいたのですが過日、ふいにそれに出会いました。
Kikuchitose1 Kikuchitose2  出会ったのは堺市西区。いかにも昔風情の酒屋さんの端にありました。そのお店の懐かしい風情にも驚きましたが、そこにこれがあるとはちょっと感動しました。
 “清酒 きくちとせ”…菊千歳ですがここに記されている通り“灘の生一本”灘五郷のひとつ魚崎郷で阪神淡路大震災のあった1995年まで醸されていたお酒です。大昔の学生時分、灘に探索に出かけてはあちこち覗き込んでましたらこの、菊千歳の醸造元のひとが声をかけてくれはって中まで見学させてくれたことを思い出しました。当時はまだまだP箱より木の桟箱やった時代。蔵の前には一升瓶が山積みにされていてその空瓶のレッテルにはなぜか“白精”と記されたレッテルのがたくさんありました。時が経ってそれが何故だったのかようやくわかりましたが…その話しはまた別の機会に記したいと思います。
 とまぁ“菊千歳”と言えば灘の酒としてかつては知られた銘柄ですが、灘以前には、どうやらここ堺の地で造られていた銘酒やった様です。
 ときどき話題にしております大正5年発行の酒造家リストみたいなものが手元にあるのですが、それによるとこの“菊千歳”は堺市中之町の谷好治氏の酒となっています。“菊千歳酒造”とはありませんがこれは間違いなく同じ“菊千歳”のことでしょう。
 と言うわけでこの“菊千歳”もじつは“かつての大阪酒”なんですね。いつの頃、灘へ移ったのかはちょっとわかりませんでした。
 堺発祥の酒ということで晩年まで堺に販路があってこの様にこの地で琺瑯看板が残っているんでしょう。超余談ですが、住吉区に“菊千歳ハイツ”と言う名のマンションがあります。これは…たまたまとは思えないネーミングですよね。
Kikuchitose3 Kikuchitose4  当時実家近くの酒屋さんで買った“菊千歳”の二級酒のレッテルもここに載せておきます。“灘の清酒”となっているのは、アルコール・糖類添加では“生一本”を謳えなくなったからですね。
 それから…もうひとつ。“千歳”と漢字ひと文字だけ違う“千歳”の琺瑯看板もここに載せておきます。
 この看板は、もう四半世紀ほど前でしょうか、実家近くの酒屋さんがコンビニになる前、ゴミとして出されていたものです。でもそのお店でこの看板は見たことがなくて…店内にあったのでしょうかね。
 もう何度も記していますが自分にとっての真の地酒、それが“翁千歳”。その看板が縁あって自分のものになった喜び…ま、そんなもんですマニアってのは。
 で、です。“翁千歳”と言えば羽曳野にあった“オキナ酒造”の酒でしたがこの看板にあるのは“千歳酒造”。どういうことなんやろかと思い、ある有力な筋の人に訊きますと、

 戦時中から戦後しばらくの間、企業合同で“翁千歳”と“菊千歳”がひとつになっていた時期があって、その頃の社名が“千歳酒造株式会社”。

とのことでした。
 どちらの蔵もなくなってしまいましたが25年ほど前だったでしょうか、心斎橋あたりのチェーン居酒屋で“千歳”をメニューに発見。持ってきてもらった瓶のレッテルに記されていたのは“オキナ酒造”でした。
 ちなみにネットで“菊千歳”を検索してましたら、季節料理よこ山さんのブログというブログの2013年5月の記事に“6年熟成ビックリマーク60本限定!!菊千歳 生お酒”として“純米酒 菊千歳”が載っていました。あっ、以前見たのはこのレッテル。ですが醸造元は岸和田の井坂酒造場。そうなんか…今もどこかで細々と“菊千歳”ブランド生き残っているのでしょうかね。いずれどこかで会えるのか…楽しみになってきました。

菊千歳:菊千歳酒造株式会社
    神戸市東灘区魚崎南町四丁目9−3
移転前:大阪府堺市中之町(谷 好治)

(於:堺市西区)人気ブログランキング 法人としての菊千歳酒造は兵庫区に存在はしている模様

※関連サイト:
清酒 菊千歳レンジファインダーな日々

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2024年3月12日 (火)

かつての大阪酒 12 『磯宝』 北村酒造(株)

 一昨年の師走、仕事帰りに茨木市は本町あたりを歩いてますと黒くなった一枚の看板を見つけました。正味のところ大昔に何度か見たことあるそれですが…ここまで黒ずんでいなかった気もします。あまりに黒くて読みににくいので画像処理して載せておきます。
Isotakara2 Isotakara1  阪急本通と記された商店街と直角に交わる“本町ROSE街”という道に面してこの看板はありました。そこに記されているのは“清酒磯宝醸造元 北村酒造株式會社”の文字。見た目酒蔵という風情は絶無ながらここがかつて“磯宝”というお酒を造っていたところの様です。
 昔ここを伺ったのは1987年の春。図書館でコピーした1974年版全国酒類製造名鑑にこの酒蔵の名を見つけ行ってみたのでした。
 既に酒づくりはやめてはることは知っていましたがどんなところやったんかな程度に行ってみて、事務所らしき建物の中を覗くと木のさん箱に一升瓶が入っているのを発見。ダメ元で購入したい旨を伝えますと売ってもらえました。
 その時伺った話では“もう10年ほど前に造りはやめて今は兵庫県の親戚の蔵に造ってもらってる”とのことでした。そういう訳で肩ラベルには“発売元 北村酒造株式会社”とありますが胴ラベルには“高徳銘醸株式会社醸”となっています。きっとこの時点でもう酒造免許は返納されていたのでしょう。しかしながら…王道を行く意匠がとってもよろしいなぁ。旨い酒に違いないと思いますわ。
 当時のメモを見ますと「甘口やけど、うまい」と書いてあります。そうか…当時は“甘口は、もひとつや”と思っていたんですね。青いなぁ。
 裏手に回ってみますればそこには広い駐車場がありました。
Isotakara3 門柱に“北村酒造株式会社 通用門の看板。きっとここに酒蔵があったんでしょう。
 ついでに高徳銘醸さんのことも調べてみましたがほとんどネットではヒットしません。という訳で住所を頼りにストリートビューで見てみますと、2013年までそこに蔵がありますが2019年には宅地になっています。もう少し調べてみますと…こんな記事がありました。そうか…しんみりします。平成を何とか持ち堪えた酒蔵が令和になって大変なことになってる気がします。
 いま、“磯宝”はどうなっているのか。また別の酒蔵に委託して売られているのかそのまままぼろしのブランドになってしまったのか。若かりし日々の様に気楽に尋ねる気にはなりませんで。
 ちなみに昭和57年(1982年)主婦と生活社発行の“日本酒全蔵元全銘柄”によりますと“高徳”は「地元兵庫の米、日本晴を越後杜氏が仕込む。甘口だがベタつかない(以下省略)」とありました。兵庫県下で越後杜氏…珍しい様に思います。

磯宝 発売元:北村酒造株式会社
       大阪府茨木市本町5番7号
    醸造元:高徳銘醸株式会社
       兵庫県加東郡滝野町505(現 加東市下滝野505)

(於:茨木市)人気ブログランキング この括りの記事は…数年に1本か。時間かかんねんなぁ。

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2021年3月13日 (土)

瓶底に残ってた平成10BY“近つ飛鳥”純米吟醸…

 ここ数ヶ月ぷち断捨離してましてあれこれ片付ける中、瓶の底に酒がちょろっとだけ残る四合瓶が出てきました。
Tokuyama50 記憶はあったので「あぁ、あの時の本醸造な」と思いながら呑んだそのお酒、熟成が進んだなぁとは思うも当時の「華やかで甘みの乗った旨さはちゃんと残ってるやん」と懐かしみつつ瓶に貼った手書きの文字見て…「え?ほんまかいな」な感じ。何がってそこには“純米吟醸”の文字、しかも“生原酒”と書いてありますわ。その下にある“徳山”は“島産田錦”のことです。
 記憶違いやってんなぁと思いつつ呑んだそのお酒、常温保存で底に残ってたと言うのにオリもなく色付きも味醂以下。平成10年と言えば1998年ですからほぼ四半世紀前のお酒ってこと。ええ酒は劣化せんのでしょうかね。
 羽曳野は軽里にあったオキナ酒造、いま調べますれば廃業が2003年。その年に大量に買い込んだ本醸造に吟醸が今もたっぷり実家にあるんですがその時の酒やと思ってましたらそれ以前のもっとも勢いのあった時の純米吟醸やったんかと思うと…呑み干してしもて残念な気分になりました。
 そのオキナ酒造にはもう思い出がいっぱいすぎてなかなか記事化できずにいます。酒づくりはヤメはったものの酒蔵はまだ残っていてそないに昔の話と思ってませんでしたけど、もう廃業してふた昔になると思うと我がも歳とったもんやなぁとシミジミ。そんなオキナの蔵元の家がどうやら近年、羽曳野市に買い上げられて“街づくりの目玉”の拠点として再生されることになったとかで何かひと安心です。お酒が醸されることはもうないものの、やっぱり更地の状態は見たくなかったもんね。ま、中途半端ながらオキナ酒造さんの話は今日はここまで。いずれ…ちゃんと記したいと思います…って、ホンマ気合い入れんと書けないなぁってくらいに入れ込んでたもんで。

  “近つ飛鳥”のみならず廃業蔵のお酒いっぱい囲ってるけど…どぉしよ。

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2019年4月 4日 (木)

“金露・新泉・都菊” の看板残る酒屋さん

 堺市は“陸の孤島”美原区で仕事のあと、雨風の味噌買いにクルマで走っておりますといかにも“堺”って感じの酒屋さんの看板を発見。
Kinshinto  “清酒”の文字はほとんど落ちてしもてますが酒名はほぼ現存。左から“金露新泉都菊”…これ、すべて堺の、そして灘のお酒の銘柄。この3銘柄のことは以前にも記事にしましたので詳細はそちらをお読み頂くとして、ちょっと前までこれらのお酒が売られていたのに今ではすっかり忘れ去られて過去のものになって久しい…って言っても金露はキング醸造から売られていましたね。
 堺と言えば酒に酢、醤油と醸造業が盛んだった面影はほとんどないこと思うと、こんな看板でも貴重やないかと思ったり。そんな中、2014年から堺での酒づくりも復活したことは大変結構なことやと思います。

(於:堺市中区) 堺の酒づくり復活はええけどしやからって“千利休”って酒名は…ね。

※関連記事:
堺に残る新泉、金露、都菊、アサヒビールの看板に思う。』 2013年11月 記
ほか

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2018年6月29日 (金)

昭和なプラ看板 165 ● 清酒 百万両

 茶の湯系所用で堺へ。帰路は阪堺電車でと堺東駅から西へ。この界隈はじつに昼酒呑みに優しそうな街でええ感じ。そこをこらえてさらに歩き、見上げれば…
1000000ryo1 1000000ryo2 1000000ryo3  これはもうプラ看板の味わい全開で百点満点。忘れられつつある酒名、堂々の“大衆酒場”の文字、そして赤茶けた色合い…奥に見えるタコの看板と比較するまでもなく全面的に郷愁を誘う…というかノスタルジーを発散してるって感じです。
 何となく休業中な雰囲気もありましたが、お店のことはもひとつ調べるもわかりませんでした。
 で、“清酒 百万両”ですが、地元堺とやや縁のある銘柄。堺の造り酒屋が戦中企業合同した“新泉酒造”と灘の“百万両酒造”が戦後合併、昭和50年頃まで堺でも醸していたもののその後灘に集約。続いて親会社メルシャンに吸収されメルシャン灘工場として稼働するも阪神淡路大震災で休造そして閉鎖となり、その後はメルシャンの他の工場で造られていたましたが、いつの間にか“新泉”も“百万両”も市場から姿を消した様です。
 確か開口神社の玉垣にその名残が…と向かいますればやっぱりありました。堂々の“新泉酒造株式会社”の文字。1874年の酒造家リストを見ますと大阪府下で他蔵の追随を許さずぶっちぎりの生産量を誇っていたみたいです。まぁ堺では“百万両”印は造られていなかったみたいですけど…詳しくは知りません。

(於:堺市堺区) モザイク入れ忘れ発見…見なんだことにしとこ。

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2018年6月 8日 (金)

かつての大阪酒 11 『澤龜』 宅酒造(株)

 昨年の春、松原市のある集落を行きますと古い看板の残る酒屋さんがありました。
Sawaki1
 木彫の立派な看板。亀甲に又…“キッコーマタ”とカタカナで書くとどうも偽モンって感じに見えて気の毒ですがこれは堺の河又醤油の看板。昭和45年に貝塚のイズミイチと合併して今、“大醤”として堺で唯一自家醸造を行ってはるとか。古い看板のものが現存してるとはうれしい限りです。ちなみにシャッター上の右は“川野醤油”、左は“坪田醤油”の看板。前者は小豆島の“マルキン醤油”に、後者は龍野の“マルテン醤油”に委託し、今に至っているとか。
 とまぁ醤油の看板を見て目を右にやると、自販機の奥上にも木彫看板を発見。
Sawaki2 Sawaki3
 そう、こっちが今回の記事の本命です。
 金色の菰樽に堂々“澤龜”の文字。左右合わせて“一番よい酒”と誇らしいフレーズ。これは今までネット上で見たことがある堺の酒のひとつやないかと調べますれば…やっぱり。
 今までにも何度か記したことがあるかと思いますが堺はかつて醸造業の盛んだったそうで、お酒に関しては灘を上回る規模やったとか。最盛期にはその堺で“澤龜”は一番たくさん造っていたとネットには記されていました。ですが手元にある大正5年の酒造家名鑑によりますと982石とあり、多い方ではあるものの、“金露”の5,025石に比べるとかなり差を開けられていた様です。ちなみにここの蔵元の“宅德平”氏は同じく堺の酒造家“鳥井駒吉”氏と共にアサヒビールの元となる会社(有限責任大阪麦酒会社)を立ち上げたとのことです。
 堺と言ったら臨海コンビナートのイメージが強くて醸造業で賑わって海外輸出もしていたなんて考えられません。“水不足”が原因で廃れたとのことですが、新しいものにチャレンジしていく精神がここ堺にはあって、すっかり産業が変わったのかもしれんなと思ったりします。
 で、“澤龜”はいつまであったのか…は、もひとつわかりませんでしたが、戦中の企業合同で“新泉”となって消滅したのではないかと思います…多分ですが。

:宅酒造株式会社
    大阪府堺市九間町(大正5年時の住所)

(於:松原市) せっかくの看板が自販機裏とは…と思いつつ、ここやから盗難にも遭わんですんでるのかもしれん。

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2016年9月 5日 (月)

昭和なプラ看板 131,132 ● 清酒 金露キンロ

 “酒は金露で張りキンロ”、まとめてふたつ。
Kinro1 Kinro2
 撮った順にまいりましょう。これは2010年1月、東成区にて。肝心の小判マーク、片面が太陽光やられて痛々しい上、支柱の劣化もあってか歪んだ状態に。案外その不安定さが消滅した酒蔵のブランド看板って感じを増長させてええ雰囲気とも言えます。
 いつもクルマで通るたびにその歪みキンロを愛でておりましたが2012年頃に建物ごとなくなってしまいました。
 次のはこれとは打って変わって、上物です。
Kinro3 Kinro4
 見ての通りのピッカピカ。おなじみアーケード下の物件、前々回の“キリンレモン/キリンビール”同様、河内長野の駅前商店街にあるものです。商品名がドンとでっかく記されているのが、やっぱりよろしいですね。しかしながら“金露”よりも“キンロ”とカタカタ表記の方を全面的に押し出しているところが、このお酒のユニークなところでしょうか。他にはあんまり思い出せんなぁ…あ、そう言えば昔は“ハクツル”と“サワノツル”もカタカナで大きくネオンサイン出したりしてはりました。
 さて、大阪は堺で生まれ、戦後、灘・魚崎郷の酒として親しまれていた“金露”の金露酒造ですが1997年に廃業されました。金露酒造のことはかつての記事阪堺電車の車窓に見えるキンロの看板残る建物からあれこれ。に詳しく記しましたのでそちらをご覧頂くとしてこの辺で失礼致します。

(於:東成区 2010年、河内長野市 2016年 キング醸造の金露には…手が伸びん。

※関連記事:
いまもむかしも百舌鳥梅北町5丁。』 2013年12月 記
堺に残る新泉、金露、都菊、アサヒビールの看板に思う。』 2013年11月 記
阪堺電車の車窓に見えるキンロの看板残る建物からあれこれ。』 2013年2月 記
金露で白鶴、多聞で世界一統…?』 2007年9月 記

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2015年7月18日 (土)

かつての大阪酒 10 『竜精』 信貴久酒造(有)

Ryusei1 Ryusei2  先日の水間鉄道沿いの小旅防火水槽ナショナルのお店見つけて「ええとこや」と思いつつ住所表記見ますれば「…ん?昔この住所あたりに酒蔵あった様に思うなぁ」と。ここらの住所は貝塚市“三ツ松”。その住所見て「あっ」と思ったのです。
 ハタチそこそこの頃、大阪府下の酒蔵に興味を持ちはじめ、しょっちゅう昔の醸造元の記された“全国酒類製造名鑑”のコピーを見ていた若き日の山本龍造。まだまだ脳に余力あったかそういうどうでもええことが割と頭に入って…四半世紀は過ぎた今でも、その頃の記憶が蘇る訳です。
 いつも下調べなしをよしとするアホげ、とりあえず「この建物が酒蔵やったんちゃうか?」と写真を一枚二枚。いかにも酒蔵風…ではありますが「ちょっと小さすぎるかなぁ」と思いつつ時計見れば「あ、もう時間や」で、森駅方面へ引き返しました。
 帰宅後調べてみますればやはり三ツ松にかつて蔵元があり、その住所をストリートビューで確認しますれば…まさにこの蔵がそれでした。もう少し…ほんの後5mほど先まで歩いていたら酒名“リユセイ”と書かれた看板も残っていたようで…あぁ、残念。
 かつてここで“竜精”というお酒を醸されていた信貴久酒造というのが1974年発行の名鑑に記載されているということ以外、何ひとつこの蔵の情報はわかりませんでした。
 スカスカな記事で申し訳ありません。どなたか詳細ご存知のお方おられましたらひとつお教えいただきます様、よろしくお願い致します。

竜精:信貴久酒造有限会社
    大阪府貝塚市三ツ松1455-1

(於:貝塚市) このカテゴリ、滅多に更新してへんなぁ。ネタはあるんやが…

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2013年11月18日 (月)

堺に残る新泉、金露、都菊、アサヒビールの看板に思う。

 先日仕事で行った堺。帰りしな、道端のベンチに座ってふと前を見ますと、ええ風情の酒屋さんに、ええ看板が。
Sakai1 Sakai2
 手前のヤナギがまたええ風情を醸し出してますわ。きっとここはそれなりに知られた“観光スポット”なんではないでしょうかね。そこに掲げられた木製看板、そこに記された酒名に、さっき通った商店街にもかつての堺酒の銘柄が記されたプラ看板があったことを思い出しました。
Sakai3 Sakai4
 “新泉”、“金露”、“都菊”…これらみんなかつて堺で醸されていたという銘酒。平成の今となっては、もうそれをリアルに知る人も少ないのではないでしょうか。
 “新泉”は戦中の企業合同で生まれた会社。戦後灘の“百万両”と合併、“百万両新泉・堺工場”となり、昭和50年頃まで甲斐町西1で醸されており、その生産量は府下最大だった様です。その後、灘に生産を集約、メルシャンに吸収され、阪神淡路大震災で打撃を受けたのち、メルシャンの他の工場で造られていた様ですが、現在はもう発売されていない様です。余談ですが東京は月島のええ居酒屋“岸田屋”には、菊正宗とならんで“新泉”供されていました。
 “金露”は文化3年堺で操業、明治期に灘に進出、戦災で堺の蔵が消失したのを期に灘、魚崎に一本化して酒づくりをしていたものの、あの震災後、経営が悪化、蔵を閉じ、その酒名は味醂のキング醸造に引き継がれ、今は兵庫県稲美町で製品化されている様です。“酒は金露で張りキンロ”…そのフレーズに懐かしいと感じるのも、もう50歳代以上の世代でしょうか。
 “都菊”は安政年間に長崎で操業、明治期に当時の銘醸地、堺に移転。戦後、灘に本拠を移し酒づくりを続けていたものの、その蔵は剣菱の中蔵となり、近くの魚崎酒造の蔵やったところに移転したあと、震災後、どうも廃業した模様です。
 木製看板には新泉と金露に挟まれて“アサヒビール”も旭日マークとともに記されています。朝日麦酒…これも調べてみれば堺由来のビールとか。詳しくはアサヒのサイトを見て頂くとして、このビールの生みの親のひとりが鳥居駒吉という人物で、やはり堺の酒造家出身だった様です。堺発祥の造り酒屋が消滅したいま思うと、ビール醸造に転身した氏の決断は、先を見越していたなぁと思うのですが、どうでしょう。
 “堺”と言えば、私なんかは臨海コンビナートの工場地帯のイメージが強いのですが、南蛮貿易以降、新しいもんにチャレンジし、受け入れて行く土地柄があるのかもしれませんね。詳しく知りませんので、この辺で。

(於:堺市堺区)
堺の銘酒再びと“夢衆”というお酒が“さかい銘醸”というところから数年前出ていたけど、いまもあるんかなぁ?

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2013年2月10日 (日)

阪堺電車の車窓に見えるキンロの看板残る建物からあれこれ。

Hankai
 阪堺電車の車窓から見えるある酒屋さん。もうやめられてる風情でありますが、お酒の看板も手伝って何ともええ風情やなぁといつも眺めているのですが、先日、仕事の帰りにちょっと立ち寄って見てきました。
Sakaisakaya1 Sakaisakaya2
 「あ、このキンロの建物な」。そう思った人も多いのではないでしょうか。とっても古い感じでもないですし、独特の意匠が施されているわけでもなく…その普通に古い感じが何ともホッとする、そんな物件です。先にも触れましたが、やはりお酒の看板がかかっているところが、いいんですなぁ。
Sakaisakaya3 Sakaisakaya4  “キンロ”がひときわ目立っていますが袖のところには清酒『紅心』の看板もあります。ともに現存しない蔵元の銘柄ですが前者は“灘の生一本”で知られていましたが、発祥はここ堺。その昔は“堺生まれの酒 金露”と記された阪堺電車も走っていました。神戸の大震災を経ても何とか頑張ってはりました。その頃「堺でもう一度酒づくりを再開するらしい」という噂を耳にしていたのですが…それも叶わぬまま1997年に長年の歴史に幕を閉じました。堺が酒や醤油など醸造業の一大産地やったなんて、今では考えられませんが、タマノイ酢の本社が堺にあるのが、その名残りでしょう。
 それからもうひとつの『紅心』、これは奈良のお酒だった様です。1970年代後半に廃業された様ですが、その蔵を八尾の飯田グループが譲り受け、今“長龍酒造・広陵蔵”として稼働しています。その後、蔵は建て替えられましたが、この紅心の味わいは、長龍に少しは受け継がれているのかもですね。
 と、ええ感じの建物から看板にあるお酒の話に変わってしまいました。で、「そう言えば…昔の酒造家名鑑に広告があった様な気がする」と見てみましたら…
Horiguchi Ootsuka
…ありました。古本屋でみつけた『日本醸界年鑑・昭和30年度版』にこの様なかたちで。よく見るとどちらも大阪市東区横堀に事務所を構えていた様ですが、どこにあったのか。造り酒屋も酒問屋も元気あった時代やったんでしょう。あ、趣味を語って長なりました。すんません。

(於:堺市堺区)人気ブログランキングへ 「酒は金露で張りキンロ♪」、いまはキング醸造のブランドに…

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