かつての大阪酒 13 『菊千歳』 菊千歳酒造(株)
こんな琺瑯看板があることは、いつも参考にさせてもらっている兵庫県在住の主婦安部さんのサイト“お散歩 Photo Album”にある“酒1 灘五郷”で知ってはいたのですが過日、ふいにそれに出会いました。
出会ったのは堺市西区。いかにも昔風情の酒屋さんの端にありました。そのお店の懐かしい風情にも驚きましたが、そこにこれがあるとはちょっと感動しました。
“清酒 きくちとせ”…菊千歳ですがここに記されている通り“灘の生一本”。灘五郷のひとつ魚崎郷で阪神淡路大震災のあった1995年まで醸されていたお酒です。大昔の学生時分、灘に探索に出かけてはあちこち覗き込んでましたらこの、菊千歳の醸造元のひとが声をかけてくれはって中まで見学させてくれたことを思い出しました。当時はまだまだP箱より木の桟箱やった時代。蔵の前には一升瓶が山積みにされていてその空瓶のレッテルにはなぜか“白精”と記されたレッテルのがたくさんありました。時が経ってそれが何故だったのかようやくわかりましたが…その話しはまた別の機会に記したいと思います。
とまぁ“菊千歳”と言えば灘の酒としてかつては知られた銘柄ですが、灘以前には、どうやらここ堺の地で造られていた銘酒やった様です。
ときどき話題にしております大正5年発行の酒造家リストみたいなものが手元にあるのですが、それによるとこの“菊千歳”は堺市中之町の谷好治氏の酒となっています。“菊千歳酒造”とはありませんがこれは間違いなく同じ“菊千歳”のことでしょう。
と言うわけでこの“菊千歳”もじつは“かつての大阪酒”なんですね。いつの頃、灘へ移ったのかはちょっとわかりませんでした。
堺発祥の酒ということで晩年まで堺に販路があってこの様にこの地で琺瑯看板が残っているんでしょう。超余談ですが、住吉区に“菊千歳ハイツ”と言う名のマンションがあります。これは…たまたまとは思えないネーミングですよね。
当時実家近くの酒屋さんで買った“菊千歳”の二級酒のレッテルもここに載せておきます。“灘の清酒”となっているのは、アルコール・糖類添加では“生一本”を謳えなくなったからですね。
それから…もうひとつ。“菊千歳”と漢字ひと文字だけ違う“翁千歳”の琺瑯看板もここに載せておきます。
この看板は、もう四半世紀ほど前でしょうか、実家近くの酒屋さんがコンビニになる前、ゴミとして出されていたものです。でもそのお店でこの看板は見たことがなくて…店内にあったのでしょうかね。
もう何度も記していますが自分にとっての真の地酒、それが“翁千歳”。その看板が縁あって自分のものになった喜び…ま、そんなもんですマニアってのは。
で、です。“翁千歳”と言えば羽曳野にあった“オキナ酒造”の酒でしたがこの看板にあるのは“千歳酒造”。どういうことなんやろかと思い、ある有力な筋の人に訊きますと、
戦時中から戦後しばらくの間、企業合同で“翁千歳”と“菊千歳”がひとつになっていた時期があって、その頃の社名が“千歳酒造株式会社”。
とのことでした。
どちらの蔵もなくなってしまいましたが25年ほど前だったでしょうか、心斎橋あたりのチェーン居酒屋で“菊千歳”をメニューに発見。持ってきてもらった瓶のレッテルに記されていたのは“オキナ酒造”でした。
ちなみにネットで“菊千歳”を検索してましたら、季節料理よこ山さんのブログというブログの2013年5月の記事に“6年熟成60本限定
菊千歳 生
”として“純米酒 菊千歳”が載っていました。あっ、以前見たのはこのレッテル。ですが醸造元は岸和田の井坂酒造場。そうなんか…今もどこかで細々と“菊千歳”ブランド生き残っているのでしょうかね。いずれどこかで会えるのか…楽しみになってきました。
菊千歳:菊千歳酒造株式会社
神戸市東灘区魚崎南町四丁目9−3
移転前:大阪府堺市中之町(谷 好治)
(於:堺市西区) 法人としての菊千歳酒造は兵庫区に存在はしている模様。
※関連サイト:
『清酒 菊千歳』レンジファインダーな日々
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コメント
こんばんは。
日本酒というのは、歴史を遡っていきますと実に奥が深いものですね。
「翁千歳」と深い縁があったなんて、しかも醸造元が一時期同じだったとは、
なんとも驚きです。・・と言いながら、
日本酒のことはど素人ですので、いろいろと勉強させていただいております。
これですね、堺にある看板とは。貴重な琺瑯看板、残存しているのを見つけると、
嬉しくなってしまいます。
ぜひとも私もお目にかかれるよう、ご縁を祈ることに致しましょう。
ブログのリンク、どうもありがとうございます。
こちらもちゃっかりと、リンク頂いております。<(_ _)>
投稿: tatsuya-zz | 2024年9月17日 (火) 22時50分
●tatsuya-zzさま
お酒全般もそうですけど、地元にどんなもんがあるかというのに幼少より興味ありまして、職業別電話帳なんかを眺めていた頃のまま今に至っているといった感じです。
いち時期、ふたつの蔵がひとつになっていたのは、多分“企業整備令”があったからやと想像しています。
拙ブログは“下調べなし、出たとこ勝負”でやってます。おっしゃる通り、ええネタ案件に出会える縁を祈ります。
リンク集の件、何の前触れもなくですいません。
いつもコメントおおきにです。
投稿: 山本龍造 | 2024年9月19日 (木) 13時47分
魚崎町魚崎の菊千歳、1995年の阪神淡路大震災で木造だった蔵が倒れ、中にあったタンクが倒れていました。
私が訪れた1月28日に北側のたまたま、同級生で小学校にいつも一緒に通っていた谷くん(社長の息子、1959年生まれ)と出会って、
「えらいことになったなぁ。どうすんの?」と聞いたら
「蔵がダメになって、同じ酒が作れなくなったんで、もうあかん。解体するだけで、1,500万円ほどかかる」と寂しそうに言っていたのを思い出しました。
小学生の頃は、蔵の中に入いらせてもらったり、酒粕を毎年もらって、母親がかす汁を作ってくれたり、思い出の多い酒蔵です。
残念ながら、菊千歳を飲んだのは1回ぐらいしかありませんが。
投稿: chika713 | 2025年2月20日 (木) 14時44分
●chika713さま
はじめましてようこそアホげへ。
あの震災から二週間後、魚崎郷などの様子を見に行きました。菊千歳も酒豪も福鶴も桜正宗もえげつない状態になっていて唖然としました。
まさにその頃、蔵元のご子息とchika713さまが現実の話をなさっていたんですね。
法人としての菊千歳酒造は現存するみたいですので、いずれ何らかの形で再生されないかなと淡い期待をしつつ、そないに甘ないことなんやろこと思うとそう簡単に言ってはならんことやろなと思ったり。
お書き頂いた内容には個人情報が含まれるなと思いつつ、そのまま掲載させて頂きました。
詳細お教えくださいまして有り難うございました。
また何かご存じなことありましたらよろしくお願い致します。
投稿: 山本龍造 | 2025年2月22日 (土) 16時28分
コメントへのコメント?ありがとうございます。
本文に書かれていた谷好治氏の名前を見て、えっ、同じ苗字。
ということは、谷くんの先祖は堺市に、ということで、ちょっとした大発見?
で、書かせていただきました。
もっとも、私が転勤族だったため、あの日以来、会っていないので、今はどうしているか。
そう言えば、専務だったか、役員をされていた方のお子さんも同級生でした。
ほんとに、よく一緒に遊んでいました。
なにしろ、小5まで、私、北側の道路を挟んだところに住んでいましたので。
投稿: chika713 | 2025年3月14日 (金) 23時10分
●chika713さま
再びの情報御礼です。
幼少の頃魚崎にお住まいやったってことで震災後に行かれたんですね。あの状況は衝撃的やったかと思います。
私も菊千歳が元々は堺のお酒やったというのは比較的近年知った次第です。
どこかでまだひっそりと“菊千歳”印が流通していることを願って再会のときを待ちたいと思います。まぁ、魚崎郷のお酒とはいかないかなぁとは…
いろいろお話しありがとうございました。
投稿: 山本龍造 | 2025年3月20日 (木) 10時24分