6月1日に思う。 2022
昨年パソコン新調を機にRAWデータ用の画像処理ソフトを変更しました。理由は今までのそれでは処理速度がもう尋常やないくらい遅いからで、他社のものに変えました。
そしてこの画像処理ソフト使い始めますればもうその完成度にびっくり。さすが世界でいちばん使われているであろうはずの製品です。サブスクという料金体系が気に入らんのですが、そのスタイルのおかげで日々全世界のユーザーの使用状況を吸い出してビッグデータとして利用しているからできることなんかもしれんなと思うと、受け入れざるをえません。
このソフト。本当に細かいところまで調整できるわけです。トコトンいじれるのでトコトン調整しとなる…と言うかできることが増えたら今まで「これ以上できません」で済んでいたことまでやれるわけで、お金をもらっている以上やれるべきことはやらなアカンなと「できる限り不自然さは排除しよ」と歪みに明部暗部や色調の部分補正をあれこれいじって…「そう、これでええ」と見た感じ自然な仕上がりが正解やと思っていたんですけど、ふと頭をよぎったのが「それって“写真として”自然か?」ということです。
ちょっと現場暗いです。ストロボ焚きました。被写体ばっちり写りました。背景暗いです。手前のタタミとかは白くトビ気味です…
こんな写真があったとしたら、そのままの状態の方が自然なんですよ、写真としては。うん。
デジタルもますます成熟してきてストロボなんか使わんでもキレイに撮ることができる時代ですからこの例え話はもう適切ではないかもしれないですね。ただただフイルム時代における“写真らしさ”に引きずられている感覚なのかもしれません。
自然か不自然かと言うのも考えてみれば、三次元の世界をレンズを通して二次元化していることろで既にそれは不自然なことな訳で、その上“自然な仕上がり”と言うものも撮り手なりオペレーターの解釈が必ず入ってる…そのあたり思うと「表現者の解釈として、自然な仕上がり」と…あぁ、もうどうでもええか。アカンかな。まぁそないに簡単に語るテーマやなかったかも。
何やごちゃごちゃ記しましたけど、はやい話が『被写体が自然に見える仕上がりか、写真として自然な仕上がりか…』。今まで後者の発想が自分にはありませんでしたのでこの気づき、個人的にはちょっと新しい良し悪し(?)の基準になっていくかもしれんなと思っています。
写真はやっぱり現物に忠実に…それはこの手の写真ではまぁぼやけて何とも絵にならんこの事実。どの程度に調整するかはもう完全に主観。結局なんやねん“自然な仕上がり”って。人それぞれ違うモンを想うんでしょうかね。それが面白いところかも。6月1日、今日は“写真の日”
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