かつての大阪酒 11 『澤龜』 宅酒造(株)
昨年の春、松原市のある集落を行きますと古い看板の残る酒屋さんがありました。
木彫の立派な看板。亀甲に又…“キッコーマタ”とカタカナで書くとどうも偽モンって感じに見えて気の毒ですがこれは堺の河又醤油の看板。昭和45年に貝塚のイズミイチと合併して今、“大醤”として堺で唯一自家醸造を行ってはるとか。古い看板のものが現存してるとはうれしい限りです。ちなみにシャッター上の右は“川野醤油”、左は“坪田醤油”の看板。前者は小豆島の“マルキン醤油”に、後者は龍野の“マルテン醤油”に委託し、今に至っているとか。
とまぁ醤油の看板を見て目を右にやると、自販機の奥上にも木彫看板を発見。
そう、こっちが今回の記事の本命です。
金色の菰樽に堂々“澤龜”の文字。左右合わせて“一番よい酒”と誇らしいフレーズ。これは今までネット上で見たことがある堺の酒のひとつやないかと調べますれば…やっぱり。
今までにも何度か記したことがあるかと思いますが堺はかつて醸造業の盛んだったそうで、お酒に関しては灘を上回る規模やったとか。最盛期にはその堺で“澤龜”は一番たくさん造っていたとネットには記されていました。ですが手元にある大正5年の酒造家名鑑によりますと982石とあり、多い方ではあるものの、“金露”の5,025石に比べるとかなり差を開けられていた様です。ちなみにここの蔵元の“宅德平”氏は同じく堺の酒造家“鳥井駒吉”氏と共にアサヒビールの元となる会社(有限責任大阪麦酒会社)を立ち上げたとのことです。
堺と言ったら臨海コンビナートのイメージが強くて醸造業で賑わって海外輸出もしていたなんて考えられません。“水不足”が原因で廃れたとのことですが、新しいものにチャレンジしていく精神がここ堺にはあって、すっかり産業が変わったのかもしれんなと思ったりします。
で、“澤龜”はいつまであったのか…は、もひとつわかりませんでしたが、戦中の企業合同で“新泉”となって消滅したのではないかと思います…多分ですが。
澤龜:宅酒造株式会社
大阪府堺市九間町(大正5年時の住所)
大阪府堺市九間町(大正5年時の住所)
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コメント
夜には自販機上の電球、
フットライトのように看板を照らして、
なんてことはもうないのでしょうね。
投稿: mita | 2018年6月10日 (日) 09時30分
河又醤油もイズミイチも、うちには一升瓶を入れるケースがあちこちにゴロゴロ置かれてました。なつかし。
投稿: ぽんぽこやま | 2018年6月10日 (日) 21時30分
●mitaさま
あっ、ホンマや。その為の電球かもしれませんよね。やとしたら…それなりに異様でしょうけど。
●ぽんぽこやまさま
河又にイズミイチはそれだけ泉州で幅を利かせてたんですね。そう言えば幼少の頃、出入りの酒屋さんがオマケでイズミイチのさしみしょうゆを何度かくれはったこと思い出しました。
コメントおおきにでした。
投稿: 山本龍造 | 2018年6月14日 (木) 17時50分