昭和なプラ看板 125 ● ニチボー毛糸
そもそも片町線に縁がないので、大阪市内にして放出駅もその名はカタカナ(ハナテン)で知るも、行ったことがありませんでしたが、なかなか昔ながら感の残るええ街やことで。細い商店街も健在でええなぁと歩いてますれば、ちょっと寂れつつあるエリアの一軒に「?」なプラ看板発見。
ニチボー…何げに「あぁニチボーね」とカネボウ程度に思いましたけど、ニチボーって…
帰宅後調べますればあぁ、あの、“東洋の魔女”とか言われるほどバレーボールでその昔一世を風靡した“ニチボー貝塚”のニチボーですがな。
ニチボーが日本レイヨンと合併してユニチカとなったのが1969年ということですから、まぁ半世紀ほど前には“ニチボー”は姿を消しているわけで、それを思うとこの看板、めちゃ状態がよろしいですね。あまりにキレイやったので、何となくニチボーって今もあるもんやと錯覚した様です。
今もその名を変え“ユニチカ毛糸”として売っているのか…ですが、調べてもどうももひとつわかりませんでした。世の中にはあるみたいですが、デッドストックを売っているのかもしれません。
で、そうそう、ユニチカの本店は尼崎にあるとのこと。いったいどこにあるのかいなと調べているうちに気づいたのはニチボーの大元は尼崎紡績で、それは朝ドラ「あさが来た」のヒロイン広岡浅子の夫が初代社長やったという…あぁそうなんですね。ちょっと遅かったですが一応タイムリーな発見やったかも。で、どうやら本店はそこにある“ユニチカ記念館”のことの様です。
余談ですが“ユニチカ”っていうそのけったいな社名は何かいなと思いますれば“ユ”はユナイテッドのユ、“ニチ”は日本のニチ、“カ”は会社のカとか。へぇ、知りませんでした。
“ユニチカ三幸”てな会社もあったこと思うと、カネボウ同様、脱紡績に未来があると思われた時代があったということですかね。それが吉やった企業もあればそやないこともあって…てなこと思いますれば白雪の小西酒造とか何百年と続いている会社って…すごいことですな。
(於:鶴見区) 東洋紡はトーヨーボーでもトウヨウボウでもなくTOYOBOでしかありえませんな。日清紡は…
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コメント
ユニチカ記念館…先日降りられた大物駅から徒歩七分、またの機会がありましたら是非どうぞ!
かつて東洋のマンチェスターと呼ばれた大阪には、大阪・天満紡績(現 東洋紡)、尼崎・摂津紡績(現 ユニチカ)など次々と設立されやがて大大阪時代をむかえます。
一時期は首都東京をも凌ぐ都市となりましたが、昭和恐慌や戦時体制(統制経済)により、その相対的地位は次第に低下。
想えば東洋の魔女~大阪万博の頃が一番元気があったか…またぞろ夢洲で万博開催を云うとるが…。
投稿: 難波のやっちゃん | 2016年5月27日 (金) 10時27分
そうそう。ユニチカは新次郎さんやのうて、広岡信吾郎さんが初代の社長やったんです。「あさが来た」をやっていたとき、よの役の風吹ジュンさんがユニチカのキャンペーンガールをやっていて、ここでユニチカの創業者にゆかりの役を演じるのも何かのご縁かもと話しておられました。
ユニチカ毛糸、いえいえ、デッドストックではないですよ。ちゃんと、使ってます。ユニチカ毛糸としてもありますし、スキー&ユニチカ毛糸もあります。
ニチボー貝塚・・・泉大津から泉佐野辺り南海本線に乗ったら、小さい紡績工場がまだまだありますね。
投稿: 天王寺蕪 | 2016年5月27日 (金) 23時37分