“奇跡の一本柱”か
今日は西宮で仕事。東海道線は西宮駅で降りて北側をしばし探索。ここらも大震災ですっかり様子が変わったのか昔ながらな風情ではなくスカッと整備された風な街並。「そうなんや」と思いつつふと左前見ると、ん?。
隣り合わせに柱が2本。見上げれば途中から交差していて1本は電信柱、もう1本は…ただの柱、ただ立っているだけです。まぁ想像するに、電信柱の立て替えしたものの、古いヤツをそのままにしてるということですが…要らんもんやろうに、何で抜かんのでしょうかね。
とまぁ「変やなぁ」程度に思てましたけど…そうか、これ、“奇跡の一本柱”なんかもしれませんな。最初は軽い気持ちでそう思たりしましたが、この柱くらいしか古っぽいものが見られませんでしたこと思うと、案外ホンマにそうなんかもしれんなぁという気になってきました。今年はもう何やようわからんくらいに自然災害起こってますが、そのはじまりはあのふた昔前の大震災やったんでしょうか。何が起こるかわからんと肝に銘じつつ…
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コメント
奇跡の一本○っと云えば、陸前高田の松ですが…
西宮にも有名な“一本松”があるんですヨ(笑)。
偶然FUZZYさんがコメントされた谷崎の“細雪”にも登場し、実際に近くに潤一郎が住んでいた。
谷崎は関東大震災で関西に移住し、昭和13年には“阪神大水害”にも遭っています。
で、この“一本柱”何でしょうネ…新旧の電柱が好きあって離れられない! とかなんとか(汗)。
芦屋、西宮もあの震災では多数の死者を出しました(涙)。
投稿: 難波のやっちゃん | 2014年10月 7日 (火) 08時14分
一時、実家に帰るのにチャリンコで往復していたのですが。きっかけは1.17でした。
直後は出ていた水道が止まり、ポリタンや使い捨ての食器等を買い込んで、パンクの修理道具もママチャリの前籠にてんこ盛りにして走りました。
R43は大混乱でしたからねぇ。
当時の記憶が次々起こる災害にかき消されていくようで怖いです。
自分は当日、関西にいなかったのでフラッシュバックすることがないのです。
投稿: 戦後派 | 2014年10月 7日 (火) 10時08分
JR芦屋まで列車が動いたので、六甲道に住む友人の元に支援物資を持って行ったときに見た変わり果てた町の風景がいまだに忘れられません。そして、今、その時から別の意味で変わっていった町の風景を見て、安心すると共に、記憶が風化していく怖さ、そして、まだ更地になったままの姿の東北の画像を見るたびに胸が痛みます。
私の中ではやはり、あの揺れを大阪でとは言え直に体験した分、東北の地震より神戸の地震の方がインパクトがあります。なので、我が家では防災グッズの見直しは、毎年1月17日に行っています。
なんでも、南海地震が起きる可能性が高くなってるとか・・・地震から逃れることはできませんが、とにかく減災が大事なんかなあと、いつも家人と話してます。
投稿: 天王寺蕪 | 2014年10月 8日 (水) 20時04分
西宮も変わりましたよね。
きれいで、まるで何もなかったみたいですが、この古い柱は見てたんでしょうね。
実は私、20年近く前のあの日は、今、実家のある西宮で、里帰り出産のためまだ入院中だったんです。
窓ガラスは割れ、建物にひびが入り、床は盛り上がり、水も電気も通じない(病院なので非常用電源はありましたが)寒い部屋で新生児を抱いて、自宅や実家が無事なのか、これからどうなるのか、不安でいっぱいでした。
幸い、身内にたいした被害はありませんでしたが、しばらくは震災関連のニュースを見るたび涙が出て仕方ありませんでした。
そんな母を何となく見ていたせいでしょうか、子どもがある日お地蔵さんに「じしんがなおりますように」とお願いしていたことがありました。
お地蔵さまも驚かれたことでしょう(゚ー゚;
投稿: おばちゃん | 2014年10月 9日 (木) 10時45分
●難波のやちゃんさま
いま見てきました…って、ネットでですが。FUZZYさんのコメント内容もタイムリーで…不思議なシンクロです。
そうか…ちょっと交差してますところを見ると互いに離れられん存在で…NTTも粋な計らいをするもんですな…とかなんとか。
あの震災から2週間後、芦屋〜灘を歩いたことををもういっぺんリアルに思い出すことにします。
●戦後派さま
>>当時の記憶が次々起こる災害にかき消されていく様…
ほんまにその通りです。ずっと覚えておかなあかんのですが徐々に風化する…それでええと言うとちゃうかもしれませんが、仕方ないことの様にも思います。当時の東京発のテレビ報道にはかなりの怒りを覚えましたが…東北のことどう見てるかと問われれば…
●天王寺蕪さま
あの時ほど神戸と大阪の距離、関西と東京の距離を感じたことはありません。温度差をイカン事の様に言うけれど、これは…仕方ないことやなぁと3年前より少し思う様になってきました。想像力の欠如と言われればそれまでですが、ちょっと我が自身はそんなところがありますわ。天災…ひとごとではないことだけは、ちゃんと肝に銘じておかなあきませんね。
●おばちゃんさま
そんなおっそろしくてこわい経験をされていたとは…そうでしたか。癒えてくるのは大切なことですけど、消えることはないでしょうね、その記憶。
きっとお子にも、無意識でしょうが、記憶は残ったことと思います。
やっぱりひとごとではない…再認識しとかなあかんですね。
皆さんコメントおおきにでした。その内容に対して浅い記事…ちょっと軽卒かとも思いました。
投稿: 山本龍造 | 2014年10月 9日 (木) 11時16分
おばちゃんさまへ
“母さん、あの帽子どうしたでせうね?”
西宮ネタですので、こちらでお答えします(笑)。
僕の子供の頃、“かちわり氷”は15円(今は200円)でした(汗)。
20歳以上お若いと思いますので、麦わら帽子は20円(中古)位だったかも。
で、上ヶ原は近くの学校に通ってたのでよく知ってます! 当時は田圃ばっかしでしたヨ!
あの震災では学校の後輩(下宿生)が何人も亡くなっています(涙)。
龍造さん、重ね重ねの私語 お赦しください。
投稿: 難波のやっちゃん | 2014年10月11日 (土) 17時32分
難波のやっちゃんさま
私の個人的で不躾な質問に早速お答え下さり、ありがとうございます!
やっぱりそうですよね。
その話をしても「いつの時代やねん」とか「麦わら帽子の“中古”って…」とか言われるだけで、誰も
「へえ、そうやったん」とまともに聞いてくれる人がいなかったもので…
今は、あのつばの大きな麦わら帽子を見ることもありませんね。まして野球観戦にかぶる人は確かにいない。
私は子どもだったので、かち割り氷に渡辺のジュースの素を溶かして飲んでいましたよ!
山本龍造様、そうだったんです。
って、興味なかったですか…ごめんなさい。
投稿: おばちゃん | 2014年10月13日 (月) 11時44分
●難波のやっちゃんさま
●おばちゃんさま
戦後派さんも含めコアなコメンテーター諸氏はみな西宮がらみですね。どうぞ御自由にやってください。で…中古の麦わら帽子ですか。何かいっそう痒くなりそう。ただでさえ麦わら帽子はチクチクしてかゆくてイヤでしたこと思い出しました。
投稿: 山本龍造 | 2014年10月14日 (火) 10時05分