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2013年9月19日 (木)

建物なくなり石垣、姿を現す。

 建物が取り壊されたら、そこに石垣がありました。
Ishigaki
 ここ、上町台地。「ほぉ〜こんなんになってたんか」と写真撮って帰って、よく見たら案外味わいあるもんですな。何かの法則があってそれに従って並べてあったり、きっちりブロックの様に並べてあったり、有り合わせの石をうまいこと組み合わせてあったり…ひとつの石垣でも色々なんやなぁと。ブロックの様に積まれた部分の左と右は、積まれた時期が違うということかもしれませんな。
 この様に建物に隠れる石垣はこのあたりにまだまだたくさんありそう。いつ積まれたものなんか知りませんけど、やっぱり歴史ある一帯やねんなぁと改めて思ったのでした。

(於:中央区) いざ空き地になったら、そこに何があったんか思い出せんもんやなぁ。

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コメント

とてもおもしろいです。こうではないでしょうか。
1.下から4段目あたりまでの石垣ができる。中央に階段もしくは水路があった。それは階段の左右の石垣が扇状になっていることで分かる。¥階段部分の中央に分かれ目があるが、右側は当初のもの。
2.階段もしくは水路の廃止。石垣のすき間を石で塞ぎ上部に延べ石を敷いた。上に藏があったのかも知れない。積み方が荒いため、左に傾いてしまった。
3.レンガ塀を作るため上部を積み増した。

投稿: つきたぬ | 2013年9月19日 (木) 22時55分

 “人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、あだは敵なり。”と武田信玄が云ったとか…

擁壁は現代ならコンクリが殆どですが、昔は“石積み”でその技術は古代まで溯るらしい。
中でも有名なのが滋賀の「穴太(あのう)衆」、今も末裔の石工集団が活躍されています。

石垣造りの要諦は“石集め”に始まり、最後は大きな石と石の隙間を埋める「間埋(まづめ)石」を嵌め込む際、息の合った三人の練達した技術者次第とも…

ブラック企業が溢れる現在、人材と組織について考えさせられます。

投稿: 難波のやっちゃん | 2013年9月20日 (金) 09時22分

●つきたぬさま
お久しぶりですこんにちは。そう言えば石垣マニア(?)でしたよね。
で、いろいろ推測してくれはりまして、その説明の様に写真を見てみると、どれもそれっぽく見える…確かに。何となく下に水路のトンネルでもあったんかなぁという気がしてきました。
ま、いずれにしても崩れることなく今もあるということが、すごいというかびっくりというかって感じです。

●難波のやっちゃんさま
またまた教えてもらいました。穴太衆…八尾に“穴太”という名の交差点がありますが、なんぞ関係あるんかなと思いましたが関係なさそう…いや、わかりません。
ま、それより締めくくりの一文が、重いです。
世の人々、かなり精神的疲労が溜まってるのではないかと思います。

お二人ともコメントおおきにでした。

投稿: 山本龍造 | 2013年9月27日 (金) 18時43分

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