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2012年5月21日 (月)

かつてあった地パン5 ◆ 『城東パン』

 このマークにこのブランド…覚えてはる人も今となっては50代以上の人たちでしょうか。
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 “城東パン”…かつてヤマザキやシキシマなどナショナルブランドのパンメーカーがまだ幅をきかせていなかった頃、神戸屋、進々堂などと並ぶ有力パンメーカーとして関西ではテレビCMも流してはるくらい幅をきかせていましたね。街角で菓子パンを買うのも給食で食べるのも城東パン。山本龍造の身体は城東パンでできてる様なもん…は、めちゃ言い過ぎですが。
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 八尾に会社があったこともあって、中学生時分には工場直営店にもよく買いに行ったもんです。その頃気に入っていたのは“チーズボール”という名の丸いフランスパン。いまだにチーズ入りの固いパンを食すとその頃を思い出すという…あとは、ここのメロンパンも好きでした。しっとりタイプの表面で、端っこの方だけコリコリしてて黄色味がキツくて…あれを上回るメロンパンには…出会ってないなぁ。
Joto6 Joto7  そんな私にとって昔からなじみ深い“城東パン”が、ある時にロゴが代わり、しばらくして『西湖堂グループ“城東西湖堂”』と社名を変え京都の西湖堂傘下入りしたあたりからあんまり見かけなくなって、その後工場が2度移転。末期にはすっかり呑み込まれ“西湖堂製パン大阪工場”として営業していましたが、のちに大阪工場は閉鎖、そして“西湖堂”自体も10年ほど前、私の知らんうちに倒産していました。
 昭和54年、刊行された『全国パン戦争』(日本経済新聞社編)によると、「昭和52年3月、城東パンに西湖堂が経営参加」とあり、そこには「製パン業界をびっくりさせる事件が起きた」と表現されています。当時、城東パンは日本パン工業会の有力メンバー。そんな大手が中堅メーカー西湖堂に呑み込まれたことは、まさにパン業界が戦国時代にあるということを象徴する出来事だった様です。
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 すっかり過去の思い出となってしまった城東パンですが、その名残りが地元八尾に残っていました。ひとつは御野県主神社の玉垣に残る社名。もうひとつはこの社が手掛けていた焼きたてパンのチェーン店『シャトードール』の名を今に残すパン屋さんです。探せばまだまだある様に…あ、そう言えば駒川商店街の半分露店みたいなお店が“城東西湖堂”と記されたパン箱を使ってはります。
 で、「城東パンって…どんな工場やったか?」ですね。探してみれば…ありました!。外観と内部の作業風景をお見せ致しましょう。
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…はは。こんなんですんません。共に小学2年生の時に描いたもの。外観は写生の授業で、作業風景は工場見学に行った時の様子を記したものです。しかし…よくわかる絵やなぁ…とかなんとか。余談ですが外観の絵の右端に描かれているのは、当時いつも煙を出していたゴミ焼却場の煙突ですね。こんなん描いているとは…当時光化学スモッグがさかんに問題視されていて「あの煙突はなんや!」と思ていたのかもしれません。
 よぉ残っていたなぁこんな名画が…というか「よう残してくれていたなぁ」と。おおきに。今日は節目の日。「もうちょっとマジメに生きよ」と今は…思っています。

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コメント

誕生日ですか?おめでとうございます。
記事の内容もさることながら、物持ちの良さには驚きました。
小学生の時分のものは何にも残ってないですねえ。

投稿: ぽんぽこやま | 2012年5月21日 (月) 15時49分

私、この城東パンのロゴをずっと覚えていたんですが、何処のロゴか思い出せなくて、勝手に「糊」のメーカーやったかな?って思っていました。

そうですね城東パンのロゴでしたね。すっかり忘れていました。
勿論、私も食べましたよ!
もしかしたら、工場見学行ったかも知れません。

それで工場は上之島にあったんですね。
御野縣主神社の玉垣にその名が残っているそうで。
気が付きませんでした。見に行きます。
長くなりまして。

投稿: ナムダー | 2012年5月21日 (月) 22時23分

こんばんは。
山本龍造さんってそういうお歳だったのですか!
・・・と、城東パンとは全然関係ないところで驚きのコメントですいません。。

投稿: ぷにょ | 2012年5月22日 (火) 01時16分

山本龍造さん、おめでとうございます!
誕生日スペシャルですね。(などというといやがられそうですが)
こういう地パン、私はあまり馴染みがないので惜しい気がします。
ナショナルブランドか、町の定番パン屋さんで(あんパン、ジャムパン、クリームパン、三色パンの)。
パンは随分変わりましたね。

投稿: びんみん | 2012年5月22日 (火) 01時39分

龍造さん、お誕生日なのですね。おめでとうございます!
これからもマジメな五十路の視点で(?)おもしろネタをよろしくお願いいたします。
絵画、すばらしいですね!
現在の龍造さんのルーツが描かれているように思えました♪

投稿: りろ | 2012年5月22日 (火) 08時35分

  スカイツリーOPENの日、ひっそりと還暦を迎えました。

 国内で次回の金環日食をもう一度みることができるかどうか?んなこたぁどうでもええ。

 環状線が繋がる前、祖母と石切詣で城東線に乗りまして、何処が「上等」なのか解らなかった幼少期を思い出します。

 それと、小生が育った街には「キトラパン」がありました。

 米国の余剰小麦と飼料用脱脂粉乳を有り難く戴いて今がありますが、その学校給食用のパンも焼いている関係で、社会見学で工場へも行きました。

 生憎絵は残っていませんが、工場に漂う香りは今でも思い出せます。

 古いことは思い出せても、最近のことが怪しくなってきております。

 

投稿: 戦後派 | 2012年5月22日 (火) 10時17分

山本画伯、お誕生日おめでとうございます。

城東パン、懐かしいですね。
八尾に工場があったんですね。
その住所、今はマンションになっていますね。
私も子供の頃八尾に住んでいたので城東パンの看板はよく見ました。

パン工場の絵、とても雰囲気が出ていてうまく描けていますね。

投稿: lisapink | 2012年5月22日 (火) 13時48分

 50の大台突入 おめでとうございます

“人はパンのみにて生きるにあらず”…実践されてますね

布袋さんやボン・ジョヴィと同じ年齢なんですね

投稿: 難波のやっちゃん | 2012年5月22日 (火) 16時11分

●ぽんぽこやまさま
祝いのコトバ、有り難うございます。
いやぁ物持ちええのも考えモンです。気局何もよう捨てんだけで。まぁ捨ててしもたらそれで後悔もせん様にも思いますが…です。

●ナムダーさま
“城東パン”のロゴの話ですが、
>>勝手に「糊」のメーカーやったかな?って思っていました。
これ、大正解やないですか。
『フエキ糊』のロゴのフォントと一緒というか似てるというか。そう言えば私も幼少の頃「似てる字体やなぁ」と思っていたことを思い出しました。
しかし何です、やっぱり中河内人同士、同じモン食っておっきくなったんですね。
そうそう神社の名入り石柱って“玉垣”って言うんでしたね。記事も訂正しておきました。おおきにです。

●ぷにょさま
>>山本龍造さんってそういうお歳だったのですか!
…って、記事が幼すぎですよね、うん。ま、この路線はしばらくは変わらんというか…立派な記事は他の有能な皆さんがおられますので、隙間ブログとしてアホの五十路の遊びにお付き合い頂ければさいわいです。“城東パン”のことは、どうでもええですよ。

●びんみんさま
祝いのコトバおおきにです。で、
>>誕生日スペシャルですね。
はい、そうです。あからさまな五十路入り記事もつまらんし恥ずかしいしってことで、城東パンと拙い絵を道連れに50年をちりばめてみました…って、そんなええもんではないですけど。
どんな業界も、薄利多売の末、大企業しか生きにくい世の中になってしもたもんやとつくづく思います。つまらんです。

●りろさま
祝いのお言葉ありがとさんです。
“マジメな五十路の視点”か…ま、読み流しとくことにしまっさ。
絵はね…ホント恥ずかしい。「お前は絵ヘタやでぇ」とわからせるために図画の授業ってあったんちゃうかなぁというくらい、今も昔も絵を描くのは苦手です。苦手故、工場なんかを題材に選んだんでしょう。はい。

●戦後派さま
え!、私と10年と1日違いってことですね。これはこれは、戦後派さま、おめでとうございます
。私勝手にもっと年長者のお方かと思っておりました。
10年違うとそれだけ経験したこととか世の中とかが違うもんなんですね。今回お書きの“城東線”も私にはごっつ昔の人が使うコトバやと思てましたし…で、“城東”と“上等”…確か城東パンもその響きが同じ事を利用してCMしていた気がします。
>> 米国の余剰小麦と飼料用脱脂粉乳を有り難く戴いて今がありますが、その学校給食用のパンも焼いている関係で、社会見学で工場へも行きました。
…いろいろなニュアンスが混ざった一文ですね。
パサパサパンと脱脂粉乳を「美味しなかった」とひと言で片付けられませんね。
匂いの記憶…わかる様な気がします。音の記憶も同じ様にありますね。

●lisapinkさま
はじめましてこんにちは。祝いのお言葉までおおきに有り難うございます。で、“画伯”…おちょくらんといてください…とか何とか。
恩智川の端にあの工場はありましたが、その後はおっしゃる通り、巨大なマンションになりました。もう…15年とか20年にあるかもしれませんね。八尾にお住まいやったのでしたら、あの黄色いプラ看板もよく覚えてはることでしょう。
これからも気楽に書き込み頂ければさいわいです。

●難波のやっちゃんさま
50の大台…ほんまですわ。
>>“人はパンのみにて生きるにあらず”
また今回も教えて頂いて…いつもすんません。
で、ボン・ジョヴィも一緒でしたか。
同世代が誰かはほとんど知らずで、同じ日生まれは諸口あきらさんと故・深町純さん…って、このお二人は難波のやっちゃんさん世代でしょうかね?

皆さん嬉しいコメントを…有り難うございました。

投稿: 山本龍造 | 2012年5月23日 (水) 11時54分

遅ればせながら、城東パンのお話、有り難う御座います。

袋のイラスト、ほのぼのとしていいですね。

地パンとは知りませんでした。
初めて食べた銀チョコが城東でした。
もう感動しましたね。
甘党の私としては理想のパンの形でしたから。
西湖堂は遂に食べずじまいでした。

私の学校は関西パンでした。
社会見学もそうでした。

覚えているCMを。

「みんな西湖堂育ち。
西湖堂のパン。」
「西湖堂。最高ですよ。」
「奥さん、城東でっせ。城東。」

投稿: わい | 2012年5月23日 (水) 17時04分

わいさま
わいさんって確か“城東パン”の検索でアメリカ堂パンの記事か何かに来てくれはったのが最初ですよね。城東パンネタはいずれちゃんと記さなあかんなと思いつつどうまとめたらええのか考えたら面倒くさくてこのタイミング逃してはムリってことで、今回記事にしました。
昔は町のパン屋さんで菓子パン買うと紙袋に入れてこれてましたよね。写真にあるのは残念ながら“城東西湖堂”バージョンですが、城東パン時代の絵は、大阪の街を描いたもので通天閣とか太陽の塔とか大阪城が描かれていたのを覚えています。
銀チョコは城東のが理想の形でしたか…ヤングロール同様、懐かしいですね。
関西パンは…まだ給食用ベースで米飯も手掛けて頑張っているみたいですが、私はトラックをみたことがあるだけで、食したこともありません。これからも…そうでしょう。
懐かしいCMも思い出しました。ありましたね。しかしなんです、考えてみたら“上等”とか“最高”なんですね、城東西湖堂って。
「城東、再鼓動」とはいかんですかね。
コメントおおきにでした。

投稿: 山本龍造 | 2012年5月25日 (金) 12時58分

こんばんわ。おひさしぶりにご訪問させていただきます。

ついに城東パンが登場しましたね。私が山本さんのブログに来るようになったのは、城東パンをネット検索していたときにこのブログのアメリカ堂パンの記事がヒットしまして、その中で城東パンについていろいろ語ってたのを見たのがきっかけなんですよ。私はサンテレビで90年代初め頃までオンエアされていた西湖堂パコムチェーンのCMで最後に‘西湖堂・城東パン‘と企業名テロップが出ていたので名前だけは知っていましたが、殆ど幻の地パンメーカーでした。貴重なご証言をありがとうございます。


五十路になられたんですね。おめでとうございます。

投稿: からす | 2012年8月21日 (火) 00時17分

からすさま
お久しぶりでございます。こんにちは。
“城東パン”は、いずれちゃんと記さねばと思いつつ、ネタもそこそこあり、何をどうどういうタイミングでまとめたらええんかちょっと面倒くさくなってまして、五十路を期に「えいやっ!」と仕上げました。小学生時分の絵が、こんな風に役立つなんて…って、全然役立てませんが、ま、ご愛嬌ということで。
「ええ歳してなにやってるん」な拙ブログですが、また時々遊びに来たってください。コメントおおきにでした。

投稿: 山本龍造 | 2012年8月21日 (火) 03時19分

はじめまして。

実は戦後ウチの嫁の祖父がその時の社長と立ち上げたのが
「城東パン」だったらしいです。
上之島に工場を建てる際、八尾の市長や政治家さんと
バリバリの交渉をして、未整備だったインフラを工場の為に整備した話やコクヨの土地を借りており、帝塚山にあった黒田〇〇○氏に土地代を毎月持参し、その時は一線を退いていた事もありながら色々な話を聞いたと懐かしそうに話しておりました。

そんな祖父も今年の2月に亡くなり、もうそんな話も聞けなくなりましたが、こうやってロゴだけでも拝見できなんか感無量です。

私は30代ですので、城東パンは知らなかったのですが、
実際に食べられていた方が「こんなパン屋が八尾にあったんだよ」とこれからも何かの機会に話して頂ければ幸甚です。ありがとうございます。

投稿: decopanchi | 2012年12月10日 (月) 14時06分

decopanchiさま
はじめましてこんにちは。
城東パンにまつわるあんな話こんな話し…創業者の関係者しかわからない情報を色々お教え頂きありがとうございます。最終的には残念ながら消滅してしまった城東パンですが、上之島に工場を建設する頃は、それはそれは会社に勢いのある頃やったんやろなぁと想像しながら読ませて頂きました。実際その当時、山本高校あたりの電柱には全部と言っていいほど“城東パン”の看板が付いていました。
また何か楽しい逸話でも耳にされましたらお聞かせくだされば幸いです。
本当に情報ありがとうございました。
(なお、勝手ながら頂いたコメントののいち部分、伏せ字にさせて頂きました)

投稿: 山本龍造 | 2012年12月11日 (火) 00時15分

城東パン、ああ~なつかしい。お城のマーク。中河内八尾市東山本の生まれ育ちの55歳の小生には、小学校の頃がよみがえります。八尾市立山本小学校2年生の時か?上之島の工場に社会見学。パンをいただいて帰りました。改修前の恩智川、まだ土手でススキが生えていました。母校も昨年か、新校舎に立替、時の過ぎ行くをリアルに感じます。当時は、八尾市の学校は、社会見学というと、歯ブラシ工場やコクヨの八尾工場、帳面もらって帰りました。今は「アリオ」になってしまいましたが、御野県主神社の玉垣に残る社名。懐かしい~通学路となっていた神社。大卒後、就職活動、西湖堂採用になりましたが、他の会社に就職しました。給食は「日興乳業」の牛乳もあったなあ。当時は、牛乳のフタ集め、ベッタンが流行。「日興乳業」さんにはお世話になりました。「メロディアン」に変わり、ドンドン変わって行きます。

投稿: 139 | 2012年12月28日 (金) 11時40分

139さま
はじめましてこんにちは。
同じ時代に同じ空気を吸うて生きた者にしかわからん話の数々を有り難うございます。とくに改修前の恩智川のことを知ってる人ももうまわりに滅多にいませんで、うれしいです。
私も城東パンの工場見学でパンをもらいました。ジャムパンと…もうひとつが何やったかは思い出せんのですが。
学校給食の牛乳は、私の時代は“中西牛乳”でした。味気ない水っぽさで、牛乳嫌いの私には有り難かったですね。まぁ、その頃から日興乳業の方が盛んな感じでしたが、まさか今みたいにコーヒーフレッシュで全国制覇するなんて想像もできませんでした。
コクヨもなくなり…ほかには藤井生コンなんかもありませんね。
ほんと色々変わりました。これからも変わっていくのでしょう。

コメント有り難うございました。
レスが激遅になったことお詫び致します。今後ともお付き合い頂ければ幸いです。

投稿: 山本龍造 | 2012年12月31日 (月) 18時14分

同級生のおじいさんが城東パンの偉い人だったかも、城東パンの創業者が和歌山県下津の人だったはず、な~んてことをさっきセットで思い出し・・・検索したらここにたどり着きました。わたしは城東パンの向かいの中学校を卒業しました。小学校の時工場へ見学に行きました。給食はあんまし美味しくない城東パンで毎日バツゲ-ムのようでした。
もしかしたら山本さんは昔身近にいた人かもって想像しています。

投稿: pico | 2013年5月17日 (金) 19時57分

picoさま
こんにちは、ようこそここへたどり着いてくれはりました。
“城東パン”、これ、検索してもあんまり出て来なかったかと思いますのでまぁ、ここにたどり着くしかなかったかもしれませんが、内容薄々ですいません。
で、創業者さんが和歌山は下津出身やったんですか。それでわかったことひとつ、遠くは和歌山にも営業所があるねんなぁパン袋に記されている住所見て思っていました。
で、私も当然給食は、城東パンのパンだったのですが、あれは…美味しなかったですね。焼かんトースト、パサパサのコッペパン、油ジュワーっと滲み出る揚げパン…あれらはやっぱり給食用にイマイチな原材料を使って作っていたんでしょうかね。市販の城東パンは結構美味かったのに…
で、
>>もしかしたら山本さんは昔身近にいた人かもって想像しています。
そうですよ、山本、ヤマモトやがなわしは…って、本名は山本ちゃうんですけどね。しかし何です、こうやってあの時代にあのあたりの空気を吸っていた者同士がこうやってネット上で話が出来る…不思議な時代になったもんやなぁとつくづく感じます。
コメントと情報、おおきにでした。
これからも気楽にお付き合い頂ければ幸いです。

投稿: 山本龍造 | 2013年5月22日 (水) 07時40分

親に聞いたところ、
TBS系時代の6チャンで城東パンのCM流れていたようですね。

4チャンがNET(現テレ朝)系、
6チャンがTBS系
だった時代、
土曜の6チャンは部長刑事→全員集合でしたね。

今の6チャンでいうお願いランキングゴールド・仕分け∞の時間帯です

投稿: 奈良市民 | 2013年6月10日 (月) 13時27分

奈良市民さま
そうですか。どこのチャンネルで流れていたかまでは知りませんでした。「ジョートーでっせ」とか言うCMは、よく耳にしていましたが。
あと、落ち目になってからは、サンテレビで、西湖堂と一緒になっての“パコム”のCMをよく見ました。
しかしながら朝日と毎日の腸捻転まで知ってはるとは…

コメントおおきにでした。

投稿: 山本龍造 | 2013年6月11日 (火) 11時11分

城東パンはジョートーでっせ、
親に聞いたところ6チャンで流す割合が高かったようです。

部長刑事と全員集合の間、
東芝日曜劇場が始まる少し前
等。

当時の6チャンはTBS系だったから関東人・岩手県民・石川県民にもch番号で通じました。

日テレ系とNET(現テレ朝)のch番号が2大都市間で真逆だったのも。

テレ朝(関東圏)はその後は完全地デジ化で10から5へ変更、
当時東京12チャンネルだったテレ東も完全地デジ化で12から7へ変更。

思えば当時はテレビ大阪が開局前でした。

城東と上等をかけたネーミング、
アラ還の両親は懐かしいと言っています
(父は昭和24年生まれ、母は昭和32年生まれ)。

城東区と思っていた人も多かったでしょう?
(かつて城東区の一部だった鶴見区を含めて)

関東の人は城東といえば墨田区・江東区ら辺を連想するでしょう
(江東区の亀戸地域はかつて城東区だった)。

中国地方・九州の人はリョーユーパンと聞き間違えたかも

投稿: 奈良市民 | 2013年6月14日 (金) 10時29分

●奈良市民さま
あんまりテレビを見ませんもんで、チャンネルひとつとってもいろいろあんねんなと読ませてもらいました。
で、城東パンは、八尾に来る前は、確か大阪市内にあったはずです。それが城東区やったのか否かは残念ながら忘れてしまいましたが。
どっかにも書きましたが城東西湖堂は「上等最高どゃ」と…下品でした、すんません。

投稿: 山本龍造 | 2013年6月15日 (土) 07時31分

突発的乱入、お許しください。
1984年亀岡市に引っ越す以前に、西京極駅近辺に住んでいた頃、駅南商店街の入り口あたり、花屋町通りの一つ南にあった角のパコム西湖堂のお店を想い出しました。
未来がたくさんあった、アラ20の青少年の味という印象で、懐かしいです。

ほとんど、中身ぎっしりの、あんパンだけを目的でした。
たまには、レタス多い目のバランスのよい、これもまたすごく美味しいミックスサンドも買ったと思います。
家業のお店で、日本人離れした面持ちの母娘さん、今で言うイケメンの息子さんの3人家族、
学校の合間に番をしてましたね。
これから、ちからを合わせてもり立てて行こうという雰囲気であふれました。
もう、そのあんパンも食べられ無いのが残念です。

投稿: パプアはな | 2014年7月 8日 (火) 10時57分

●パプアはなさま
レスが遅くなり、まずはごめんなさい。
パコム西湖堂ですか…きっと城東パンのパコムと同じ様なお店やったんでしょうね。私の住む街にはパコムは…なかったのかあったのか。看板の思い出しかありません。あんパンもサンドイッチも美味かったんですね。どんな一家が経営してはったのかがこちらにもとても伝わってきました。
そのお店、その一家はどうしてはるんでしょうね。会社の倒産は色々な人々の人生を狂わすという現実…そんなこと思いました。
コメントおおきにでした。

投稿: 山本龍造 | 2014年7月17日 (木) 11時11分

城東パンの話、とても懐かしいです。昭和8年生まれ、86歳になる私の父が経理部長かをしていまして、鉄腕アトムのTV放送が始まった時、スポンサーをしていた、和歌山にも工場があり会社の従業員は600人居てた等の話をしていましたね。今でもパンを入れていた無地のプラケースは家にあります。私が6歳の頃脱サラで辞めましたが、経営が悪くなる前には当時格下だった神戸屋パンとの合併話もあったそうですが、社長の反対でなくなったそうですね。経営がだめになった理由は、やはり設備投資が出来ていなく品質も悪かったので、時代について行けなかったと言っていました。母はパンはパサパサで美味しくなかったと言っていました。私も食べていたのは覚えていますが、保育園の頃なので味は覚えていませんが、皆様のお話につい参加させていただきました

投稿: | 2019年1月 9日 (水) 22時27分

●さま
お名前頂けませんでどなた様かわかりませんがこんにちは、ようこそアホげへ。
お父上が城東パンにお勤めやったのですね。あれこれ深い情報を有り難うございます。和歌山にも工場があったんですね。確かパンを入れる紙袋に岸和田と和歌山も書いてあるましたが営業所やったのかと思っていました。それで600人も働いてはったとは驚きです。そらそれだけの規模でしたら神戸屋より大きかったんでしょうね。こちらも知りませんでした。
本文にも出てくる本“全国パン戦争”によると、大阪のパン会社はみな結束して設備投資をせんまま仲良くやってたところをヤマザキやシキシマに品質で持って行かれたみたいな記述がありましたが、やっぱりほんまやったんでしょうね。
給食のパンはまずくてもメロンパンやらチョコロールやら美味しかったんですねけどね、残念です。
レスが遅くなってすいませんでした。今後ともよければお付き合いのほどよろしくお願いします。

投稿: 山本龍造 | 2019年1月13日 (日) 21時31分

人はパンのみに生きるにあらず、神の口からでる一つ一つのことばによって生きる。
いや〜懐かしいお話です。私の青春そのものなんです。城東パンに就職して結婚、脱サラでシャトードル経営、お書きになってる絵も懐かしく思い出されて外観、工場の様子、まるでタイムスリップしたようです。事務所のごみを焼却場に持って行き焼きましたw 煙そのまんま素晴らしいです。
先に書いた聖書の言葉は城東パン近くの教会で受洗しクリスチャンなり、この言葉の深い意味を知ることなりました。
あれから〜50年です。愛する城東パンのお話有り難うございました。

投稿: あにちゃん | 2022年1月31日 (月) 18時40分

●あにちゃんさま
はじめましてこんにちは。ようこそアホげへ。
城東パンが青春そのもの…あのメロンパンにヤングロールが甘い思い出なんですね。
小中高生時分…特に中学生の頃は城東パンにはお世話になりました。塾の行き帰りに直営店の自販機で買ったりもしてました。西湖堂時代もけっこう食べましたので、やはりなくなってしまって残念です。
シャトードールもなさっていたとは。記事内の写真にあるシャトードールさんも知らん間になくなりましたが、奈良にはまだその屋号で商いされているお店もありますね。当時と同じ様なラインナップなのかどうなのかは知りませんがまだ残っているのはちょっと嬉しかったりします。

諸々懐かしいお話ありがとうございました。
よろしければ今後とも寄ったってください。

投稿: 山本龍造 | 2022年2月 1日 (火) 14時03分

早速のコメントありがとうございます。皆さんがお書きになってる内容が、私の記憶を呼び覚ましてくれます。事務所の机の配置、経理部長の横顔
九州の帰省の為に切符を手配して下さった常務の温かいお人柄、また、最後の店舗なのでしょうか奈良のシャトードールはもう、代替わりかもしれませんが、私の同僚が経営しています。
それと、もうひとつ城東パンは生き残ってますよ
大阪でジョートー食品として学校給食の事業をされています。私にとっても嬉しい事です。
頭に浮かんだ事を、色々お話させて頂きましたが
山本さまこれからもお元気で、ありがとうございました。

投稿: あにちゃん | 2022年2月 3日 (木) 00時09分

●あにちゃんさま
これまたご丁寧に書き込み頂きまして有り難うございます。
あにちゃんさまが懐かしい日々を思い出すきっかけに拙ブログがなれたとしたら、少し嬉しく思います。
奈良のシャトードールも城東パンの元社員さんが手掛けておられるのですね。いま見ましたらHPも充実していて頑張っておられる様ですね。
で、ジョートー食品さんも城東パンの流れを汲んでいるんでしたか。
じつは10数年前ある病院に入院していた時、売店でジョートー食品のメロンパンを買って食べたことがありまして、そのことを記事にしたこともあります。
https://osaka.way-nifty.com/blog/2008/10/post-49ce.html
ただ…もひとつ美味しかったという記事ではないので、もう一度ちゃんと食べて検証してみたいところですが…どこに売ってるんでしょうかね。
玉串川沿いの道路の電柱に“城東パン”と看板が付けられていたのもふと思い出しました。書き込み頂いた内容もこの記事を訪ねてくれはる読み手の皆さんにとても響くことかと思います。

城東パンの様々な情報を提供頂き有り難うございました。また何か思い出されましたら、気楽にコメント頂ければ幸いに存じます。

投稿: 山本龍造 | 2022年2月 4日 (金) 15時15分

今でも新しいコメントが付いているようなので自分もひとつコメントをば。

近隣に住んでいましたから社会見学は城東パンでしたよ。正直なところ現存するメーカーさんに比べパサパサの食感は否めずあんまり食することはありませんでしたが。
今でもあのマンションを見ると城東パンだなぁと思ってしまいます。

それより伝えたいのは父が勤めていた事のある城東パンでの話です。初めて就職したのが城東パンだったらしいんです。
いろんな話を聞きましたが、一番印象に残ってるのはケーキ職人がホイップの口金をねぶりながら調理していた話です。工場は寒くクリームが出なかったので職人さんは口で温めてクリームを出していたそうです。もう古い話なので時効ですよね(笑) 多分昭和2、30年代はどこでもそうだっただろうとフォローしておきます。

投稿: 銀ベェ | 2022年3月20日 (日) 01時09分

●銀ベェさま
と言うことは銀ベェさんとはかつてすれ違っていたかもしれません…って互いにHNしか知らんので実際には共に机を並べていた可能性もありますね。
“パサパサ”感は給食用のそれではホンマ感じましたね。あと、ほおばるとジュワーっと油染み出す揚げパンとかね。
で、銀ベェさんのお父上は城東パンにお勤めでしたか。えげつない情報をおおきにです。
うん…確かにそんなの普通な時代やったんでしょうなぁ。そうせんことには仕事にならなんだこと思うと必要悪(?)とも言えます。
ちなみに私は学生時代に一ヶ月ほど某大手パン会社にアルバイト行ってましたけど、そこでは作りすぎたパンを翌日の日付に付け替えて出荷してました。それが当たり前の時代…っていまだにそんなもんかもしれんなぁと思ったり。

レア情報おおきにです。

投稿: 山本龍造 | 2022年3月22日 (火) 13時33分

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