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2011年9月24日 (土)

むかし平野三十歩町2、いま平野東2-1。

30po1 30po2 比較的新しい住宅の勝手口、何げに見ますとありました、仁丹モンの町名看板。+の木ネジでとめられているところを見ると、元々この建物にあったものではないと考えられます。ですのでこの場所が昔“平野三十歩町2”であったという確証はないのですが、建て替え後に看板を移設したものという気がします。
 「三十歩町…そんな町名があってんなぁ」と現場ではそればかり気になってちゃんと見てなかったのですが、帰宅後よく見ると、看板上部に“東住吉区”の表記が。調べてみますれば平野区は、1974年に東住吉区から分離したとか。比較的最近のことやと言うのに知らんかったなぁ…と思ってましたら、もっと昔、1943年まで平野は“住吉区”やったということで、意外な感じがします。
 今はなくなってしまった町名を大切に思うからなのか、はたまた仁丹モンの町名看板を愛でておられるのか…いずれにせよ「残しておいてくれておおきに」と心からそう思うのでした。

(於:平野区)人気ブログランキングへ 看板だけやなくて町名も昔の方のが風情あってええなぁ。

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コメント

平野三十歩町って耳にしたことがなかったので、思わず昔の地図を披きました。阪堺電車の平野駅終点から少し東側にあったとても小さな区域だと知れましたよ。
平野公設市場のあるあたりの場所であれば、現在の「平野東2丁目1番」とたぶん新旧合致するんでしょうね。
しかし、謂れのある場所とは存じますが、不思議な地名があるもんですね。

投稿: ファジー | 2011年9月24日 (土) 22時37分

こんばんは~♪

現在の平野区には'71年まで6年ほど暮らしていましたが、平野三十歩町というのは初めて聞きました。
ファジーさんのコメントから察するところ、嘗て在った映画館(その後、スーパーになったかと)の裏辺りのようですね。

旧南海平野駅界隈は、未だに昭和40年初頭の面影を色濃く残していて、偶に出掛けるとホッとさせられます。

投稿: 啼兎 | 2011年9月25日 (日) 04時34分

「平野」も「鶴見」とよう似た変遷ですね。

私、平野はええとこやなと思っていますので、例の話ではありませんが、こっちに返して貰いたいですね(笑)

無茶な話では御座いますが…

投稿: ナムダー | 2011年9月25日 (日) 21時20分

●ファジーさま
早速お調べ頂きまして有り難うございます。
「平野公設市場…どこかいな?」と調べますと、今はシュッと“リアールひらの”とか言うみたいですね。で、あの仁丹看板を見つけたのは、そのブロックの南東角ですから、きっと昔あった場所と同じところに再設置しはったんでしょうね。しかしながらほんま…ちと変わった地名故、なおさら町名変更が残念に思われます。

●啼兎さま
平野に1971年までの6年間住まれていて“平野三十歩町”をご存じないと言うことは…かなり以前になくなってしまった町名なんでしょうかね。
チン電が平野へ乗り入れていた頃の面影は、ほんと何となく残っているなぁと感じますね。商店街の名前に“南海”といまだに入っていたりと。私もあの界隈、好きですわ。

●ナムダーさま
私の感覚では、平野区でも東の“加美”あたりが「河内ちゃうん?」と思うんですが、どうでしょう。平野区のいわゆる“平野”と“加美”では、全然その持っている雰囲気が違うと感じるんですが、どうでしょう?
私もいわゆる“平野”の佇まいがとても気に入っています。ええとこですね。

皆様、調査結果や思い出、想いをコメントにしてくださいまして、有り難うございました。

投稿: 山本龍造 | 2011年9月26日 (月) 13時11分

山本龍造さん、こんばんは。

三十歩町は大正11〜昭和49年の地名で、「東住吉区平野三十歩町」は昭和18年から昭和49年までの地名だそうです。角川の「日本地名大辞典」によれば。
元の地名にこだわりを持っているようでいいですね。
私も平野区がそんなに新しいとは思いませんでした。

投稿: びんみん | 2011年9月28日 (水) 00時57分

びんみんさま、毎度です。
“平野三十歩町”の歴史をお調べ頂きまして有り難うございました。
やっぱりこんな歴史ある町名を変えてしまって勿体ない様に思いますね。まぁ、その時代の要請があってなされた区画整理、町名変更でしょうから、そういう歴史もまた認めなければならないとも思いますが。
いつもコメントをおおきにです。

投稿: 山本龍造 | 2011年9月29日 (木) 00時02分

何気に「大阪市東住吉区平野三十歩町」で検索してここにたどり着きました。

1974年の区制改革の時、8歳でした。小生の住んでところは、大阪市東住吉区平野市町三丁目から大阪市平野区平野市町一丁目 に変わっています。

ところで、「三十歩」は、「さんじゅうぶ」だったか「さんじゅっぷ」だったか、どっちだったかなあ、と、悩んでいます。

なくなった地名としては、「梅ヶ枝町」「京町」などがあります。ネットで検索しても掛かって来ないことが多いですね。

それでは。

投稿: TAMO2 | 2012年12月27日 (木) 21時42分

TAMO2さま
はじめまして。ようこそお越しくださいました。
馴染みある町名が、区画が変わるというのも、さみしいことやなぁと思いますが、当時はなんでも効率優先の時代やったんでしょうか。ま、それは今の方がキツい様にも思いますが。

>>ところで、「三十歩」は、「さんじゅうぶ」だったか「さんじゅっぷ」だったか、どっちだったかなあ、と、悩んでいます。

はは、“さんじゅっぽ”ではないと。よそモンはこの読み方にまで気がいってませんでした。確かに気になりますね。
「梅ヶ枝町」と記された木の町名看板はまだひとつ残っているのを見つけました。何とも風流な町名やったもんがなくなったんですね。ざんねんに思います。
コメントおおきにでした。
またよければこれからもお付き合いのほどを。

投稿: 山本龍造 | 2012年12月29日 (土) 11時32分

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