« 駐車場への誘導人 | トップページ | 大阪駅の市バスのりば。 »

2011年6月19日 (日)

昭和なプラ看板 48 ● デリカパン

Delica3 Delica1 Delica2 地パンな風情の看板発見。いかにも60年代によく見られた様な字体がとても愛らしいですな。とくに水滴ふたつでできた“ン”の可愛らしさがたまりませんわ…とか思いつつ「ん?これ、昔も愛でた物件やないか?」とかつての写真を探してみれば、やはり…2002年のフォルダにありました。
 ブリキ看板もあってプラ看板に明かりが灯って…今もええ感じと思いましたけど、やっぱり昔の方がもっとええ感じ。この様に見比べると、公衆電話も赤い台と電話帳とセットで人間味が感じられるええ味を醸し出していたんですね。昔も今も、変わらん風情であるものでも、徐々に時代とともに変化している…当たり前と言えば当たり前ですけど、写真で見比べてみんと、案外気づかんもんかもです。
 で、『デリカパン』ですが、検索しても全然わからずで同名のフライパンしかヒットしませんでした。たぶん大阪の地パンやとは思われますが、現存するのか否かも不明。ちょっとスッキリせんままの公開となってしまいましてすいません。もう少し調べてみます。

(於:生野区)人気ブログランキングへ ガチャガチャもええ味出すとは知らなんだ。

| |

« 駐車場への誘導人 | トップページ | 大阪駅の市バスのりば。 »

懐かし…」カテゴリの記事

プラ看板」カテゴリの記事

大阪市東部」カテゴリの記事

コメント

私の小学校の給食のパンはデリカパンでした
工場見学も行きました
今は中央区の空堀の人間です
学校名はJR桃谷とは関係ない元南区の桃谷小学校です

投稿: 元南区民 | 2011年6月20日 (月) 12時25分

元南区民さま
はじめまして。ようこそお越しくださいました。
で、デリカパン食べて育ちはったと。デリカパン…今は元南区民さんの血となり肉となって生き続けてるということですね。
それで工場見学にも行かれたと! それは貴重な体験。やはり興味が湧くのは、その工場はどこにあったのかということですが、旧南区にあったんでしょうかね。
興味をそそる書き込みを有り難うございました。
これからもお付き合い頂ければさいわいです。

投稿: 山本龍造 | 2011年6月20日 (月) 19時07分

えっとね、1977年の私が2年の時でした
たしか地下鉄谷町6丁目駅から3駅くらいやったと記憶してます
工場は菓子パンとかは無く、主にコッペパンが多かったと思うので学校給食専門のパン工場と悟りました
私が6年の時に米飯給食が始まり今となってはパンより米飯の方が多いと聞きますから潰れたんではないかと思います
ちなみに牛乳は正木牛乳で、これも学校給食によく使われる会社で今でも生野区にあり昔は生野区の工場に牧場があり牛がいたと聞きました
そんな小学校も合併し廃校になりました
デリカパン 非常に懐かしかったです(笑)

投稿: 元南区民 | 2011年6月20日 (月) 19時52分

元南区民さま
谷六から3駅ですか…と言うことは“今里”くらいでしょうか?だったらこの看板のお店にもまぁ近くですし…生野区にあったのかもしれませんね。
で、デリカパンの見学では菓子パンが見られなかったと。それは気の毒ですね。私も見学で地元の“城東パン”へ行きましたが、ジャムパンとかもらえてとてもうれしかったもんですから。
それから正木牛乳の“正木牧場”ですが、最近見かけんなと思っていましたら、牛乳ヤメて、ケーキ屋になってるんですね(http://www.pastry-masaki.com/)。
卒業された母校が廃校になると言うのは、たまらん淋しいもんやと察します。まぁ、土地が民間に売却されずに公園や市の施設になっているだけ、少しはマシかもですね。
あれこれ色々情報を…有り難うございました。

追伸:“サハラ香水香油製造所”という看板の掛かった立派な建物が桃谷小学校跡近くにありますが…昔は造ってはったんでしょうかね。

投稿: 山本龍造 | 2011年6月20日 (月) 23時25分

 デリカパン、懐かしいですね。
 私も、小学校の給食は、デリカパンでした。
 中学は弁当でしたが、校内の売店で菓子パン類も売っていて、それもデリカパンでした。
 当時は、大阪市西区に住んでいて、幼稚園の時、近くに工場があったため、見学に行き、おみやげにパンをもらいました。
 社名は「漬新食品工業」だったと記憶しています。
 パン類のほか、仕出し弁当も作っていました。
 今はこの会社、どうなったのでしょうか。

投稿: | 2011年10月13日 (木) 23時33分

 さま
どこのどなたか存じませんがこんにちは。ようこそ拙ブログにお越しくださいました。
で、早速ですがデリカパンは…“漬新食品工業”でしたか!。レアな情報を有り難うございます。
この会社の製品なら、私も食したことがあります。シキシマパンだったかの下請けもやってはったのか、大手のパンか菓子を買ったら“漬新…”と書いてあったのを思い出しました。その時見た住所では、港区か西淀川区か…確か海側の区やった印象があるのですが、西区でしたか。記憶違いですね。しかしながら検索しても全然ヒットしませんね。また今度、図書館にでも行って調べてみることとします。
私もそうですが、給食で食べていたパンの製造元って、いまは無くなっていることも多い見たいですね。何となくさみしいものです。

貴重なコメントを有り難うございました。
もしよければ、これからもお付き合いのほど、よろしくお願い致します。

投稿: 山本龍造 | 2011年10月15日 (土) 13時37分

 山本龍造さま
 レスありがとうございました。
 前回は無記名でしたが、今回は、この名前の通り、私は大阪市西区に生まれ、18歳まで西区に住んでいました。
 西区には、母の実家があり、その近くに当時の自宅がありました。
 さて、デリカパンですが、私が幼い頃は、パン食党の家では、今のように、スーパーなどでパンを買うのではなく、近くのパン屋さんで、毎朝、朝食用のパンを買ったものでした。
 たまたま、最寄のパン屋さんが、デリカパンを扱っていました。
 デリカパンの工場は、西区の、当時富島町といっていたところにあったと記憶しています。
 デリカパンのほか、大阪市内のパン屋さんでは「アメリカ屋パン」「ミドリ屋パン」「マルジュウパン」などの看板を掲げた店がありました。
 昔は、こうした中小のパンメーカーがたくさんあったということでしょうか。
 今、スーパーに売られているパンといえば、山崎製パン、Pascoシキシマ、神戸屋パン、フジパンなど数社に絞られ、後は、オイシスというブランドのパンも、しばしば売られています。

投稿: 18まで西区民 | 2011年10月16日 (日) 20時25分

18まで西区民さま
再びコメント頂きまして有り難うございます。
漬新食品工業のあったのは、現、川口3あたりということでしょうかね。川口に知り合いがいますので今度訊いてみます。
で…そうですね、もの昔は“まちのパン屋さん”と言えば、今の様に「焼きたてパン屋」の事ではなくて“デリカパン”とか“神戸屋パン”と記したプラ看板のあるパン屋さんのことでしたよね。
私の育った地元では“城東パン”の看板をあげたお店が主流でしたが、最寄りのお店は“シキシマパン”のお店で…まだその当時は、シキシマもヤマザキも大阪ではそないに知られていない時期やったのになと今となっては思います。
今は見かけん様になったブランドでは“アケボノパン”“富士屋パン”“西湖堂パン”…もっとあったんでしょうね。
今みたいにスーパーで各社のパンが並んでるなんてこともありませんで、たいがい1店舗1社が原則でしたね。最近スーパ−で、九州のパン屋“リョーユーパン”も見かけますね。その昔は北海道から“日糧パン”も攻勢をかけてきてはった時期もありましたが最近見ません。
なかなかパン業界、生き残るのが大変みたいですね。

また何かありましたら色々お聞かせください。
有り難うございました。

投稿: 山本龍造 | 2011年10月17日 (月) 14時31分

 山本龍造さま
 レスありがとうございました。
本日、たまたま西区方面に行く用事があったため、「デリカパン(漬新食品工業)」の工場があった付近に、出向いてみました。
 私が45年前に通園していた幼稚園は、園舎が新しくなり、園児たちの制服も、私が通園していた頃とは、デザインが変わっていました。
 そして、デリカパンの工場があったと思われる場所は、マンションが建っていました。
 このマンションの竣工時期はわかりませんでしたが、レンガ調のタイルで外装を仕上げた建屋であったため、80年代以降と思われます。

投稿: 18まで西区民 | 2011年10月28日 (金) 19時39分

18まで西区民さま
行ってみられたんですね、デリカパンのあった場所に。マンションになってましたか…大阪市内では工場で何かをつくって収益をあげるより、マンション家賃で収益をあげる方が率ええんでしょうかね。悲しい気もしますが、東大阪などの工場もマンションに変わってしまったところが多くありますね。
しかし何です、幼稚園の制服をよく覚えてはりますね。びっくりです。あれもこれも変わる中で「変わらんのは…わしだけか」とつらくなることもしばしば。もちろん老化という変化はしてるんですけれども。

デリカパン跡地の最新情報、有り難うございました。いつも通り、コメントへのレスが激遅となってしまいまして申し訳ありませんでした。

投稿: 山本龍造 | 2011年11月 1日 (火) 10時21分

よくぞ・よくぞデリカパンを探された! 私も急にデリカパンのピーナツパンが恋しくなり、検索をかけたところ、ヒットするのはフライパン記事ばかりの中にこのブログを発見したしだいです。 
ピーナツパン→コッペパンの間に、ピーナツクリームを挟んだ物ではなく、全部がさくさくのクッキー生地で出来ており、その上にピーナツが1/2割でたくさん散りばめられていた大好物でした。 デリカパンを買うと、専用の紙袋があり、その裏にはデリカパンの歌なるものが書かれていました。 その歌詞の始まりは、憶えています。 デリカ・デリカ・デリカパンと始まりますが、曲がわからず、よくふざけて適当に歌っていました。

投稿: スミやん | 2014年10月12日 (日) 11時36分

●スミやんさん
はじめましてこんにちは。ようこそ拙ブログへ。
私はデリカパンを知らんのですが、ここにお書きのピーナツパンは…かなり美味そうですねぇ。ぜひとも私も食べたいですが、叶わんのですね。
で“デリカパンの歌”これもよろしいなぁ。勝手なメロディで歌う…私も兄としましたわそう言えば。ま、こっちは“ワタベのエビ満月”のパッケージ裏に記されていた歌詞にでしたが。“ワタベのね エビ満月を 食べちゃった”とか言うのですが…今でも歌えますよ、もちろん勝手なメロディですけどね。
美味しそうな情報を有り難うございました。今後ともお付き合い頂ければさいわいです。

投稿: 山本龍造 | 2014年10月14日 (火) 10時34分

はじめまして、おじゃまします
漬新食品を検索していて、このブログに出会いました。

検索すると西宮の株式会社漬新がヒットするんですが、関係があるのでしょうか?
パンは関係ないようですが、業務用の惣菜などを扱っておられるようです。
社長さんの苗字が、漬新食品と同じみたいですが ...

なお、東の端の方でしたが、私は20までは西区民でした、。

投稿: Bon | 2017年5月12日 (金) 19時28分

●Bonさま
初めましてこんにちは、ようこそアホげへ。
西宮の“漬新”は阪神高速から何度か見たことがあって私も関係あるんかなぁと思うもわからんままです。ただ社長さんの苗字まで一緒となると、なんらかの関係があるんやないでしょうか。
お教え頂きまして有り難うございました。レスが遅くなり申し訳ありません。よろしければ今後とも気楽に書き込み頂ければさいわいです。

投稿: 山本龍造 | 2017年5月17日 (水) 10時20分

大阪西区のデリカパン工場はよく知っています。昭和60年に友人が勤め始めたので、よく遊びに行っていました。
会社の先輩の方とも交流があり、余った菓子パンを貰ったこともありました。パン工場はマンションに、向かいの
サンドイッチ工場と社員寮は一戸建に替わりました。デリカパン在りし頃が懐かしく思い出されます。

投稿: ゆうちゃん | 2017年9月30日 (土) 14時38分

●ゆうちゃんさま
はじめましてこんにちは。ようこそアホげへ。
友人がデリカパンにお勤めで、会社にも遊びに…開放的で暖かな会社やったんかなと想像します。古き良き時代…だったんでしょうか。どんな業界も集約されてしもておもしろないなと思います。

コメントおおきにでした。他記事にもなんぞありましたらお気楽にお書きください。

投稿: 山本龍造 | 2017年10月 2日 (月) 10時07分

デリカパンを検索していたらここにたどり着きました。私は1958年生まれで漬新のデリカパン横のマリア幼稚園に通っていました。昔、富島町、今、川口になっています。昭和40年頃はパン食ブームもありかなり盛況でした。デリカパンの看板も沢山見ました。2つ歳上に娘さんがいて同じ小学校でした。間違っていたらすみませんが、廃業か、倒産したと聞いています。今はマンションになっています。

投稿: 藤田和也 | 2020年10月20日 (火) 20時53分

●藤田和也さま
はじめましてこんにちは。
リアルタイムでデリカパンをご存知なのですね。私は記事の通り看板でしか見て知った次第ですので、当時の繁栄していた頃の話をお教え頂き、想像して楽しませてもらいました。
それにしても“漬新”とは変わった社名ですね。大昔は漬物で商いをされていたのでしょうか。

情報おおきにでした。また何か気になる記事でもありましたら気楽にコメント頂ければ幸いです。

投稿: 山本龍造 | 2020年10月21日 (水) 10時57分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 昭和なプラ看板 48 ● デリカパン:

« 駐車場への誘導人 | トップページ | 大阪駅の市バスのりば。 »