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2009年4月23日 (木)

昭和なプラ看板 27 ● 日立キドカラー

Kidcolor “ソリッドステート”の響き、“キドカラー”のフレーズ…まさしく昭和40年代が色あせもせずそのまんま残っている…前回の“天狗ハム”みたいに劣化したものも趣があっていいのですが、今回のは、約40年前のモノとは思えない美しさで…いやぁ、状態がいいものはやっぱり美しいです。ポンパ君もいきいきしてますね。
 キドカラーと言えば宣伝飛行船。大阪の空にやってきたとき、職場より父親から「いま東の方に飛んでいってる」という電話が家にあって、しばらくしたら飛んできて…あぁ何か楽しかったなぁ「テレビに出てる飛行船が、これか!」という。もちろん自転車で追いかけました。ああ懐かしいことで。看板が色あせてないと、思い出も色あせないもんです…とか何とか。

(於:旭区)

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コメント

こんばんわ。


これは綺麗なポンパ君ですね。私も何回か見かけたんですけど・・・色褪せた物しか見たことないんですよ。てか家電メーカーはキャラクターマークが多いですねぇ・・・東芝(光速エスパー)松下(ナショナル坊や)ソニー(ソニー坊や)シチズン(シチズンCちゃん)とか


私は飛行船といえばコニカですね。その印象が強かったのか、初めて買ったカメラもコニカでした(笑)

投稿: からす | 2009年4月28日 (火) 00時20分

コニカの飛行船…ん?…あぁ、ありましたねぇって、現物は見た事ありませんけれど。
コニカのカメラには、その昔フイルム装填する箇所に“さくらカラー”とか自社のフイルムの広告シールが貼ってあったんですけど、からすさんの時代はどうでしたか?
コニパン→サクラパン→コニカPanと白黒フィルムはコニカもんをずっと愛用してたことを思い出しました。
ちなみに山龍も一眼レフカメラはコニカでデビューでした。
コメントおおきにです。

投稿: 山本龍造 | 2009年4月28日 (火) 22時58分

こんばんわ。レス遅れました。

コニカの飛行船は社名が新ロゴに変わった80年代によく見かけました。私がカメラを扱いだした頃はビッグミニが出た後やったんでそのシールはありませんでした。後で中古でC35(ジャーニーコニカ)やC35EF(ピッカリコニカ)を手に入れたときに初めてそのシールを見ました。コニカのフィルムと言えば センチュリアスーパー400は安かっんでデジカメに切り替えるまでかなりお世話になりました(笑)

コニカ一眼レフはオートレックス(ハーフ判とフルサイズ切り替え可能)とオートリフレックスT3が有名どころですかね。

てか全然キドカラーの話題から外れてますね(^_^;すいません

投稿: からす | 2009年5月 5日 (火) 22時35分

からすさま、コメント有り難うございます。
富士のカメラ“フジカ”にも、昔は“フジカラー”のシールが貼ってありましたょ。
…って、こちらもキドカラーからはずれまくってますが。

投稿: 山本龍造 | 2009年5月 7日 (木) 09時44分

はじめまして。
ステキなブログですね。
実は私の父はその『キドカラー』の宣伝飛行船を飛ばす仕事に
当時関わっておりました。
詳しい事は知らないのですが、うちにその『キドカラー飛行船』の
模型(ちゃんと糸を張ったところを滑って行く形になっていました)が
ありました。

近年まで実家にあったのですが、去年引っ越した時に
母が捨ててしまった様です。
父も数年前に他界していて詳しい事が聞けないのが残念です。

でもブログ主さんの様に『キドカラー飛行船』を覚えていらして
そしてこんな心温まるエピソードまで読む事が出て来て嬉しいです。
わたしの父が知ったらきっと喜んだ事と思います。
有り難うございました。

投稿: Miya | 2009年11月20日 (金) 09時25分

Miyaさまこんにちは。はじめまして。
ようこそここにお越しくださいました。

で、何ですか?お父上は『キドカラー』の宣伝飛行船を飛ばす仕事に携わってはったと。
…ということはお父さんは全国各地を飛行船とともに回ってはったんでしょうか?
子供の時にはその“日立の飛行船本体”しか見てなくて、どんな人がどの様に運行しているとかにまで気がまわらんかったわけで…そうですね、そういう皆さんのお陰で楽しい思いをさせてもらったんやなぁと改めて思いました。

それでね、あの日立の飛行船なんですけど、確か、どこかの海側の埋め立て地に係留中、強風か台風に巻き込まれてどっか飛んでいってしまって終わった…っていう話を聞いた様に記憶しているんですが、その記憶がホンマなんか、空想なんかが今となってはハッキリせんもんでして…

Miyaさまのお父様がこの話を耳にすることがあったとしたら「そんなん大ウソ、ちゃっと運行してたよ」って言わはったかもしれませんね。

コメント頂き本当に有り難うございました。
今回の様に記事の内容に関係ある人やその知り合い、家族のひととこうやってお話しさせてもらえて…昔も昔でよかったけれど、今もええ時代なんやなぁとしみじみ。
今後とも宜しくお願い致します。おおきにでした。

投稿: 山本龍造 | 2009年11月20日 (金) 16時27分

お返事が遅くなって申し訳ありませんでした!
父は亡くなっているので母に確認したところ
やはりブログ主さまのおっしゃるように
大阪の河川?に停留している時に台風が来て破損、
飛行船の旅はそこで終わりになってしまったそうです。

当時宣伝として各地をあの飛行船でまわっていたのですが
父はその操縦や整備士さんをまとめる役だったそうです。
(企画マネージャーみたいなものでしょうか)。
しかも飛行船で各地を回っていると
行く先々で操縦士さんたちがモテて(花形職業に見えたのでしょう)
彼らも若い独身者だった為、
『風紀を乱さない様に』管理するのが中々大変だったとか!(笑)。

当時の父も多分まだ20代後半位だったと思うのですが
元々は飛行機の操縦に関わる仕事をしていました。
飛行船とかカラーTV登場とかの良い時代に
この様な夢のある仕事が出来て本人も楽しかった様です。

ステキな思い出話を有り難うございました!!

投稿: Miya | 2011年6月 5日 (日) 06時06分

Miyaさま
ご報告ありがとうございます!
やっぱりと言うか何と言うか、私の記憶は半分正解で半分間違ってたということですね。「どっかに飛んでいってしまった」は…なんでそういう記憶になったのか、大人が脚色して子供に聞かせたのかもしれませんね。

>>行く先々で操縦士さんたちがモテて(花形職業に見えたのでしょう)

この感じは…わかる様な気がしますね。
ちょっと違いますが、私は蒸気機関車の機関士さんに憧れて、スタンプ帳差し出して「サインしてください!」って言ったのを思い出しました。「そんなん書いたことないしなぁ」と笑いながら書いてくれはったのもええ思い出です。
蒸気機関車と言えば確かやっぱり日立の『ポンパ号』というのもあったと記憶していますが、こっちは現物を見た訳ではありません。
しかし何ですね、まだ20歳代のお父上がそういう花形職業に就く若き独身者を束ねるとは…昔の大人は若くてもしっかりしてはったんやろかなぁと思ったり。勿論Miyaさんのお父上の器が大きかったからですよね。

夢のある時代の夢のある仕事…いいなぁって、勿論苦労も絶えんかったんでしょうが、こういう関係していた人の家族の方から頂くコメントを読ませてもらうとそのこころの中での広がりも格別のモンがありますわ。

本当に久々に続報を有り難うございました。忘れずに書き込み頂けたこと、とても感謝しております。有り難うございました。

投稿: 山本龍造 | 2011年6月 5日 (日) 23時11分

ブログ主さま、
本当に返答が遅くなってすみませんでした!
実はこの2年程、バタバタしていたせいで
こちらのサイトもずっと覗けなくて
返答が今になってしまっていたのでした!
でも本当に面白くてステキなサイトなので
これからはちょくちょくお邪魔させて頂きたいと思います!

いや、もしかしたら飛行船、壊れて飛ばされたのかもしれません。
父に確認出来ないので母の記憶ではその辺は曖昧でした。
確かに当時の父も若かったですが
あの頃の日本では戦争も終わった事だし
何かパーッとパワーを発揮出来るような事がしたいと思っていた
若者も沢山いたのかもしれませんね。
まさに高度成長期の象徴のようなイベントだったと思います。

ブログ主さまは小さい頃機関車の操縦士さんに憧れていたんですね!
そうですよね、子供の頃はやたらサインを集めたりしたかったですよね。

このキドカラー号のクルー達は
もちろん子供達にも人気だったでしょうが
きっとフライトが終わると夜な夜なその土地の繁華街へ繰り出し
そこのバーの女の方やホステスさんたちに
『君たちも見ただろう?あの飛行船はボクが操縦してたんだヨ』
なんて話してモテていたのではないかと思います(笑)。
飛行船の操縦士なんかとは錚々お目にかかれないでしょうから
そりゃ面白い位モテたのではないかと思います。
バーやキャバレー文化も当時は華やかかりし時代でしたからねぇ。
本当にこのブログを父に見せてあげられなかったのがザンネンでなりません。

こちらこそ、楽しい交流をさせて頂きまして
有り難うございました!!
これからもどうぞ宜しくお願い致します。

投稿: Miya | 2011年6月 6日 (月) 12時45分

Miyaさまこんにちは。
わざわざ返信頂きまして有り難うございます。
バタバタの日々が2年間も続いていたというのに、拙ブログをよく覚えてくれてはりまして…やはり父上様への想いがそうさせたのでしょうね。
あの頃の勢いって、バブルのそれとは質が違っていたのでしょうから、本当に楽しく充実した日々だったのではないかと思いますね。その上、締め付けもさほどキツくなかったのではないかと思います。そんな中でもこそバーやキャバレーの文化が花咲いていたのでしょうね。ま、若い衆のそれを抑える立場であったお父上さまも…それなりに楽しまれたのでは?いや、そんなことありませんか。
ホンマに社会性、時代性ゼロの拙ブログですが、これからも時々お付き合い頂ければさいわいです。
本当に有り難うございました。

投稿: 山本龍造 | 2011年6月 9日 (木) 18時41分

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