無町名無丁目無番地な横沼町二丁目4
ここまで抜けるか。
後継者現れたから言うて気ぃ抜きすぎ。まぁ色合いええから…ええよ。
※関連記事:
『匿町名匿番地』 2021年7月 記
『町名も番地も剥奪された一角』 2020年6月 記
『無町名無番地』 2019年12月 記
『京のカメレオン町名看板…』 2010年11月 記
ここまで抜けるか。
後継者現れたから言うて気ぃ抜きすぎ。まぁ色合いええから…ええよ。
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『匿町名匿番地』 2021年7月 記
『町名も番地も剥奪された一角』 2020年6月 記
『無町名無番地』 2019年12月 記
『京のカメレオン町名看板…』 2010年11月 記
NHKのテレビ番組“サラメシ”終了したそうでもうこれかなり残念。まぁしばらくは未再生の録画があるからええんですけどさみしいなぁ。
かなり好きな番組のひとつやったんですけど、亡き父はこの“サラメシ”が嫌いやったんですよ。
ニュアンスとしては“嫌い”と言うより“怒り”が湧いてくる番組やったみたいです。わからんもんですなぁ。
訊くまでもなくその番組に対しての父の感情は「なに贅沢ぬかしとんねん」なもの。食うや食わずの時代の戦中戦後が育ち盛り、世帯を持ったら今度は家、そして家族の維持にいっぱいいっぱいでお昼はご飯と漬物程度で凌いてきたとのこと。そんな時代を生きてきたひとの中にはそう言う感覚であの番組を見てたんやなぁと。“妬む”やなく腹立たしく感じていたみたいです。
そうなんか…と思います。自分が育ててもろてた幼少期〜青年期に父親がそんな状態、思いで日々生活してたやて考えもしませんでしたしそんな雰囲気まったく醸し出してませんでしたから、うん。
晩年になってつい爆発しそうになってたんですなぁ。そう言えば山本龍造が世帯を持つという時にも心情を吐露しはりました。その内容にも「えっ、そうやたんか…」がいっぱい詰まっていました。心の中っちゅうのは、見えんもんです親子といえど他人には。そうやっ!“男は黙ってサッポロビール”よろしく男は背中で語るもんやったんですね。やと言うのに鈍感な我はその背中から何も汲み取ることができてなかった…。
で、サラメシ。“どんな人が何を昼に食べたか”な番組ながら、その本質は“あんな人こんな人みなコツコツ日々を歩んでます”なところにある訳でそこに発見と共感を覚えてええ番組やなぁと思ってんですが、父親にとったらそれ以前に見るに耐えん贅沢さやったんでしょうなぁ。「昼飯くらい贅沢せんとさっさと食えや」でイラっときて。気持ちはわからんこともないんですけど…いま、昭和やないからなぁ。
世代の差(ジェネレーションギャップ)、今の親子間にはあんまり感じないですよね。親子で山下達郎やらサザンのコンサート一緒に行くとか聞きますやん。ですけど自分と親の世代は…そやなかったですよ。まぁうちの両親は演歌や浪曲こそ聴きませんでしたけどそらぁ別世界に生きてたと思います。その根底に流れる価値観も当然違います。ですけど父親(=母親もですけど)自分の価値観をいっさい強制しませんでしたわ。それ思うともうね、たまらん感謝の気持ちが湧き上がってくるってもんです。
「お前はその辺どやねん?」と極楽から訊かれるまでもなくそのね、お子に対して価値観押し付けてる部分があるわなぁと。無関心はアカン、ですけどそっと見ているってなかなかできんことで。まぁ、人間できてへんなぁってサラメシなくなり父思い出しあれこれ思った訳です。
スギ花粉飛散“極めて多い”っちゅうこともあって、月はじめ大阪天満宮で梅の花愛でましたから「もうええか」思てましたけど「行けへんの?」とお子言うもんですから皆で大阪城へ梅見に行ってきました。
「ひと多く集まるとこ苦手やわぁ」と思うも何なんでしょう、さほどそれも気になりません。思えば毎年そんな感じかも。外国人も多く…いや半数以上かもしれんほど多くのひとがいるのに「難儀やなぁ」と思わされることがなくて。これは…春の訪れを告げる梅の花のせいなんかもしれませんでなぁ。 カメラあっち向けてもこっち向けてもええ感じ。やっぱり毎年春になったら来なもったいないな…そう思いつつ家に戻ってパソコンで写真見たら、何なん。ピント位置のニュアンス「そこちゃうねん」な写真多数。「カメラまかせで楽ちんラクチン」…そういう根性が染みついてる事実に気づかされました。
時間ありあまるも「花粉まみれになるのイヤ」と事務所にこもってましたらその非生産的な時間経過に「もうアカン」な気分いっぱいになって夕刻散歩に。歩き出すとそれなりに気分晴れるもんです。
せっせせっせと歩くうちに鶴橋駅近くに。「そう言えばここらに昔風情なお店があったんちゃうか?」と思いますればすぐそこに…あったあったありましたで。
前も反応してるわなと感じつつ2枚撮って…帰って調べると、ありますな。2011年の夏に記事化。15年前でも充分昔ながら感いっぱいやったところが令和にして健在ってなんと嬉しいことでしょう。
当時の写真と見比べてその変わらないありさまにキュンとしつつ…あっ、公衆電話が撤去されていますわ。そうか、何となく今回「墨 古梅園の看板は前回撮ってへんのちゃうか?」と思てたんですけど、それは電話設備が邪魔で真正面から撮れなんだってことなんですね。
当時の記事には“この公衆電話からかけると時間旅行ができそうな…”てなこと記しています。「あぁうまいこと書いてるなぁ…」と思う様な「クサイこと言ってからに」と思う様な。ま、いずれにしても15年の歳月をあれこれ思いました、わ。
(於:天王寺区) 近くの豆腐工場が静まりかえってた。驚きより「やっぱり」な気分やった。
※関連記事:
『ええ感じの店舗、昔ながらで。』 2011年8月 記
現状何とも気の毒に思いますけど、モノ自体は立派ですよね。
令和7年になってしばらくの頃、この防火水槽に出会いました。見ての通りエアコンの室外機の台としての余生の過ごし方にあれこれ思う上に、何となく水槽部分がゴミ置き場状態な風情に不憫さを覚えますわ。
胴体には“水用火防”と記されていたであろうゴシック体の文字の残骸。一体形成ではなく後付けやったというのがよくわかります。
剥げかかった胴体下部のコンクリの下地に見える網目のサビ…そうやったんかって感じ。防火水槽が鉄筋というか何というか、金属で駆体を強固なものにしてあるとはこれを見るまで全く知りませんでした。
ま、その割に水を溜めたらどっかから漏れ出そうな風合い。それ思うと室外機の台座という余生に甘んじつつ現役ってだけで充分ですかね。どんな状況であれずっと残って欲しいヤツです。
(於:東成区) コンクリに覆われていたせいで“供出”させられんで済んだんかもな。
※関連記事:
『防火水槽 234 ■ 守口市馬場町3−4−17』 2021年7月 記
『防火水槽 6 ■ 京都市中京区西ノ京池ノ内町』 2009年7月 記
ちょいちょい見かける図ながら「またか」とはならんもんで。
大地から地表に顔を出したそこが筒の中やったら、もうてっぺんちょの青空めがけて生長し続けるしかないってことでしょうなぁ。
ま、苦労した分、災害にも強い環境を手に入れよった訳でそれはそれでよかったんちゃいますか。人々からも愛されるでしょうしね…それはどやろ?か。
(於:奈良県奈良市) 2022年10月のストリートビューにも写ってる。ええ感じ。
※関連記事:
『笹、細い塩ビパイプの中で細々と生きる。』 2023年3月 記
『電柱に着生植物…否々』 2022年11月 記
『ナミイタとモルタルの隙間から笹の葉が』 2022年7月 記
『庇の瓦屋根から笹が生えてる』 2021年4月 記
『鉄パイプの中、驚きの速さで生長の草。』 2020年6月 記
『ミラーの支柱、てっぺんから笹。』 2016年8月 記
『立体看板のてっぺんでツタ茂る』 2014年6月 記
『塩ビの筒から笹がツンツンボサ頭。』 2012年7月 記
松原市某所で仕事。今日の現場は2回目で、前回同様妙に盛り上がって、うん、やめられまへんわ…は、どうでもよろしいな。
仕事道具の片付けを近くの公園で済ませて歩き出しましたら、ちょっと危なっぽい光景がありまっせ。
ま、見ての通り。そないに古ない室外機やこと思うとちょっとええ加減な仕事されはったんでしょうなぁ。もちろん予算との兼ね合いを思うと業者さんも「えいっ!これでええわぃ」やったんかもしれませんけど。
同時に配管もビロ〜ンとなってしもてその情けなさがまたよろしいな。転落してへんのでちゃんと稼働してるんでしょう…とは言え完全底抜けも時間の問題。日々恐怖と向き合う中で業務遂行…そのうち命落としまっせ。
今日も先日訪れた高槻市某所で仕事。はよ着いて前回に気になっていたところへ行きますれば不安定な天候も手伝ってもっとええ感じに。 オブジェがふたつ…ってもちろん樹木に違いないんですけど。
両端に写る4階建の団地に漂う昭和感。ここは某通信会社の社宅…と言っても数年前から閉鎖されている様子。廃墟とまではいかないひと気の無さが、このオブジェ樹に合ってるんでしょうなぁ。
思えば“社宅”って少ななった気がします。調べますと2000年をピークに減り続けているとか。老朽化もあるかと思いますけど労使関係の変化も根底にあるんでしょう、きっと。それ思うと、ますます昭和な一角に見えてきました。
過日いつもの自転車商会さんへクルマの点検してもらいに行ったときにこんな町名看板を見つけました。
もうほぼ目にしない“布施市”の字に歴史を感じます。昔は“町”と付かず“横沼”やったんですね。大阪市内などは“梅田町→梅田”の様に“町”を取ったところが多いこと思うとちょっと不思議な気がします。
経年劣化で掠れるもそれなりに字が読めます。住所の左には“進んで納税のびゆく布施市”と啓蒙のことば。右側には“〒八尾局區内”とあります。そうか…昔は布施市も八尾郵便局管内やったとはって感じ。知りませんでしたわ。
と、思いましたが…ですわ。啓蒙のことばのさらに左側にもうっすら残る文言を発見。そこにあるのは“みんなの八尾市たこ(以下判読不明)”。そういうことかと上部を再度見ると“布施市”の後ろにうっすら“八尾市”と読める文字がありますわ。
つまり元々は八尾市用のそれを布施市のに作り変えた町名看板ってことですね。物を大事にする時代の産物…ええ味滲み出てます。
割と目立つところにありながら、今まで全然この存在に気づきませんでした。昔の状態ならもう少し字が読めるかもとストリートビューでチェックしますと…この看板の表面にブリキのそれが貼ってありますわ。そらぁ気づかんはず。その町名看板が剥がれて今この状態ってことですね。
新しいのが上から覆っていたおかげで経年劣化も少なくて済んだのかもしれません。それ思うとこれから劣化が進み判読できん状態になってしまうのでしょうか。これで良かったと思うも…何とも複雑な気持ちです。
今日もまた昨日に続き経年劣化進み過ぎ案件。
大阪市内でもまだまだところどころ旧村な風情残るエリアがありますが、生野区のええ味わい残る一角にこんな町名看板がありました。
まぁ見ての通りすっかり木造家屋に溶け込んで、みおくつしの市章と“生野區”くらいしか判読できません。じっくり見てもさっぱり解りません。
ここは現地名から調べるのがええんやないかと“小路東”から調べていくと、ほんの少しだけ判明。どうやら“大瀬町”からはじめっている様です。その後もどうやら漢字が続いているみたいですがさっぱり解りません。ここが読めれば色々なことを知ることとなるのに、残念ですわ。
下にある広告部分もさっぱり読めません。それでも一文字浮かび上がっているのが“質”。これも今までのそれ同様、質屋の広告があったに違いないでしょう。
で、皆さんも気になるであろう横に並ぶ数字とNHKと記された銘板ですが、これももひとつ何のそれかはわからんまま。数字こそ違えどかつて記事化した同じ生野区で見かけたそれと一緒です。「受信契約してまっせ」と意味するモノなのでしょうかね。ちなみにこの銘板もいつも参考にさせてもらっている兵庫県在住の主婦安部さんのサイト『お散歩 Photo Album』の“NHK”というページに載っていました。やっぱり只者の主婦さんではありませんね。素晴らしいです。
(於:生野区) ほぼカメレオン状態ですから剥がせませんでもう。
※関連記事:
『023-14 N H K』 2021年3月 記
『むかし大瀬町1、いま小路東1-8。』 2013年2月 記
経年劣化も度が過ぎると味わい薄れてしまうというもの。せっかくの古い町名看板ながら、もひとつ読めません。
住所部分にかすかに読める“八尾市恩智町”の文字。南・中・北に大字と1981年に細分化された恩智地区ですけど、以前はただ“恩智”だけであって“恩智町”と“町”なんか付いてなかった気がするんですけどね。ま、ただの記憶違いかもしれません。
下の広告部分にいたってはまったく何が記されていたのはわからない状態に。この看板、過去に何度も撮ったことあるんですけどその頃からもうこんな状態で「もうええか」と記事化せなんだんですけど、やっぱり気になるやつです。これが取り付けられているのが高度経済成長期にたくさん建った木造モルタルの長屋の端っこ。まだまだ残るもそのうち今日的なプレハブ集合住宅に変わってしまうでしょう。それ思うとやっぱり載せとこと思った次第です。
公園の一角、植物が混然一体になってまっせ。
キリにセンダン、それからツンツン葉のはソテツでしょうか。隣からサザンカっぽい木も参戦の機会を伺っている様子。なかなか過酷な生存競争やことで。
こういう状態ってのは勝手になるのか人為的にこんなふうに植えてるのか。公園故後者の様に思うもこんなアホなこと普通はしませんわなぁ…って思うも「ワシやったらするかな」。やっぱり性根が悪いなぁ。ちと反省。
(於:中央区) 手に負えん観葉植物を市民が勝手に植えよったんちゃうんな木も時々見るな。
※関連記事:
『松塚駅前のマツ・シュロ・モチノキ、三つ巴の戦い。』 2017年4月 記
えげつない高さに生長するってことは何度か記事化して知ってはいるも、不意に街かどで出会うと圧倒されますわ。
電信柱よりはるかに高いってあんた、これが南国やとかリゾート地で見ると何とも思わんのですけど。
なんぼそういう植物やと言え、このやんちょろい幹でよくまぁ保ってることで。ちょっとマヌケっぽいなぁ…ってそこがデカいながらも愛らしいところですな。
※関連記事:
『孤高の一本ワシントンヤシ』 2023年6月 記
『浜寺諏訪森町中にそびえる柱サボテン立派すぎ』 2021年9月 記
『播磨町3-6の巨大シュロ』 2020年12月 記
『シュロ、長屋で育ちすぎ…』 2012年4月 記
前回の記事書いて、改めてリムジンバスの車窓からの写真見てましたら…これもええ感じやん。 これもバスの窓越しにやみくもにシャッター押した一枚。まぁちょっとはブレてますけど何ででしょう、歩道を行く自転車だけがそれなりに止まって写ってますわ。何げにバスの速度とシンクロしたんでしょうこと思うとこれも“流し撮り”と言えるんかも…と記しつつ「ちゃうやろ」と言われそうですので“何となく”ってことにしときます。ってことで“流し撮りチック”。
niftyが展開するココログに不具合が発生しており、せっかく記して頂いたコメントがどっかに行ってしまった様です。
消してしまった訳ではないとの説明ですがこちらとしては今のところどうしようもありません。
復活しましたら必ず返信させてもらいます。不愉快な思いをさせておりますことお詫びいたします。
追記:3月2日時点で正常に戻った様子。何してけつかんねん近年のniftyは。どあほ。
白地に赤で記された実質本位なそれ。かつてそこここで見かけた様に思いますが、知らん間に懐かしい雰囲気を醸し出す存在になってます。
そうそう、これやったなぁ。幼かった頃の大昔、ヤマハ音楽教室に通わせてもらっていて、その頃の看板がこれやった気がします。まぁ看板がこれやったと言うより、ロゴと色合いがこれやったというのは間違いないかと思います。
で、何度か書いたことありますけどこれがね、全然ええ加減にしかやらなんだ訳です。同じく通っていた兄はまぁその上を行っていて、オルガンのスイッチ切って演奏するフリしてた様ですので、まだそれよりマシとはいえ…あの時ちゃんと学んどったらなぁと思いますわ。
お習字にソロバンなんかもすべてそんな調子でな〜んにも身につかなんだなぁ。色々親不孝してきたもんです。アホやったなぁ…って、今もアホのまま。それでええこともあるっちゅやあるんですけど、ねぇ。
(於:寝屋川市) ヤマハの音楽教室の歌のメロディーだけは覚えてる。しんみりしてきた。
昨年末、炊飯器を新調しました。
まだ炊けるっちゅや炊ける状態での買い替え。とは言えフタのパッキンが裂けていくら慎重に仕掛けても、ときおり本体と蓋との間から炊き汁がこぼれ出てる状態になることがあって「…でも炊けるしなぁ」と一年以上騙し騙し使ってましたが、ある時「あんな、もうそんな先が長い訳でないこと考えたら、はよ買い替えて美味しいご飯食べたいわぁ」と、うちのひと。なるほど、確かにそうですなぁ…確かに。ってことで決断した次第でございます。
これは今までの炊飯器。見ての通り盛んに蒸気出して頑張って見事に炊ける訳です。パッキンさえ裂けなんだらまだまだいけまっせ状態ですけど18年間も使ってること思うと、そらまぁ潮時かなぁ思ったりやっぱり申し訳ない気分になったり。これ、ナショナルの松下電器産業製。もちろん“パナソニック”ではありません。
そしてこれが新調した炊飯器。黒基調のシックなヤツ。花柄はどこへ行った…って、比較が古すぎまんな。価格帯としては中の上ってところでしょうか。圧力IHというカテゴリのもので今度のはZOJIRUSHIの象印マホービン製です。
18年頑張ったナショナル捨てて何で象印のにしたのかというと、同社のがいちばん売れているということで「きっと皆が支持する美味さなんやろ」ってことと、“電子ジャー”をいちばんはじめに製品化したのが同社やからってことで、です。でもまぁ思えば保温機能だけの“電子ジャー”の元祖を支持するより“電気炊飯器”やら“炊飯ジャー”の元祖を大事に思わなんだらアカンなんだ気もします。ちなみに前者は東芝が1955年に、後者は三菱電機が1967年に商品化。象印は1974年に炊飯ジャーを売り出したそうです。
で、炊き上がり。うん、どっちも美味しい。ほんま美味しい。ですけど…やっぱり新しい象印方のが、お米にツヤがあってひと粒ひと粒際立ってるって言いますか、モチモチの中に適度な弾力性を感じます。そうか、これが18年の進化なんですね…って、同じ会社の製品での比較やないんでええ加減な話ですけれども。どう考えてもパナソニックのそれも、きっと美味しさアップに違いないでしょう。
買い替えて大満足。まぁ強いて言いましたらそないにカスタマイズ条件要りませんねんけどなところ…かな。まぁそれはきょうび大概のモンがその傾向にあるなと思うんですけどね。
で、そうそう。お子と共に気に入っているのがこの“象”のマークの小ささ。ちっちゃい象が前面にひとつ、それだけ。この象のマークの横に“ZOJIRUSHI”と記していないところがかわいい♡カッコいい。洗練されてまっせ。炊き上がり以上にこの象のマークの位置と大きさに大満足です。こういうニュアンス、Panasonic製では味わえませんわな。
「ケーキ作るのに古いのは使うから」のひと言が決め手になって買い替えたのに…作れへんやん。
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『冷蔵庫、20年稼働し続けるも壊れる。』 2024年11月 記
茶の湯の稽古つけてもろて歩いてますとそこもここもまぁあんまり変わらん八尾の景色。それでもいつもは通り過ぎていた風景に惹かれて立ち止まることもあるもんです。 木造モルタルの文化住宅。まだまだ残るも気がつけばレオパレスなんかのアパートに建て替わって…そらまぁそうでしょうなぁ。
青い瓦屋根にそびえるアンテナ、錆びたナミイタ鉄の階段…それらのテイストみな昭和。あっ、臭気筒もですな。
(於:八尾市) サンテレビ用にもアンテナも付けるのが標準なんやなぁ。
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『恩智北町二丁目の文化住宅、午前10時21分。』 2024年11月 記
『初秋は午前9時の文化住宅』 2017年9月 記
二泊目は海沿い。三泊目は山奥。酸ヶ湯温泉で薄暗い千人風呂に入りますれば…体のどことは言いませんけど粘膜が痛い。口に入ると酸っぱいすっぱい。調べますれば“pH 1.71の強酸性”。
温泉から上がったら手のひらふやけて白化。乾けばザラザラでまぁなんと言うかマッチ擦ったら着火するんちゃうんって感じ。“非日常”感で言えばそらぁピカイチ。粘膜イタイの耐えて何度も非日常を味わいましたで、もちろん。
帰りはタクシーで青森駅まで。スタッドレスタイヤだけでグイグイ進んでいきます。たとえそこが下り坂でもほぼ滑りもせんとスイスイと前進。運転技術もさることながらチェーンもスパイクもなく平気に走るタイヤもすごいモンやなぁと思いますわ。もちろんクルマの性能も然り。改めていろんな人がええモンこさえて現代社会が成り立ってるんやなぁと思いました。
青森駅あたりをちょろっと観光。しかし何です、青函トンネルできて寂れた街になったんやろと想像してましたけど何のなんの観光スポットにはひとがいっぱい。“本州の北の果て”という勝手に抱いていたイメージは間違いでした。 空港の雪かきなどで20分ほど遅れた飛行機に乗って帰阪。遠くの小さな(?)富士山を愛でてしばらくするともう着陸モード。温泉三昧ながら乗り物移動の多さにちと疲れたなぁ思いつつ赤く焼けた大阪平野を眺めていました。
で、家に帰りテレビをつけると酸ヶ湯温泉で積雪5メートル超えという大雪がニュースになってますやん。いや、そらまぁ「雪国やなぁ」とは思いましたけど、毎冬こんなんなんやろと特別視してなかったら記録的な大雪やったとはって感じ。それ思うとよくもまぁすんなり帰ってこれたもんです。明日の仕事に穴開けずに済んでよかったわぁ。
(於:青森県青森市、長野県、大阪市北区ー淀川区) 満足旅ながら「やっぱり家がいちばん」と、どこぞのおばぁはんの様なことを初めて思ったのでした。
朝も塩キツめの不老ふ死温泉に入って部屋の窓から外見ますれば…いかにも、な景色。 暗い空は海に雪を降らせてるんでしょう。そうそう、こんな感じがよそモンが思う“北国の海”。
ちなみにもちろん二重窓。昨日は外の窓はサッシが凍てついて開けられませんでした。 しばらく眺めていますと吹雪いてきました。真横に流れる雪と風に争ったり飛ばされたりしながら左へ右へのウミネコも寒いことでしょうなぁ。
ずっと悪天候のままやなと思っていましたけど、わずか30分ほどで景色は変わるもんですな。
で、そうそう。波が青いでしょ。これがちょっと不思議に思いまして。
海の青さってのは青空が写り込んで青なるんやとずっと思ってましたけど…ちゃうんですね。海水自体が空気含むと青く見えるとは知りませんでした。冬の日本海でマリンブルー、これは個人的に大発見、です。
塩々の温泉を後にして再び送迎バスで新青森駅までそして青森市内をサクッと小一時間探索後、これまた送迎バスに一時間ほど揺られて酸っぱスッパの温泉へ向かいました。
(於:青森県深浦町) 時間ない腹すかんで駅ナカの“青森食堂”なるいかにもなお店での昼食が悔やまれる…ってマズかった訳でも感じ悪かった訳でもないねんけど。
二日目は“不老ふ死温泉”へ。
いつも通り“青森県へ行く”ということ以外は、うちのひとに任せまくりの半分“ミステリーツアー”。新青森駅から宿の送迎バスに揺られ続け2時間弱、海が見えました。この風情はどうやら日本海。いや、これも勝手な想像ですけど。 曇り空の隙間から太陽が光を送り込んできました。これはええ光景やわ、で数枚。潮風と吹雪で汚れたガラス越しに撮った割にはええ感じに撮れてまっせ。
そしてやがてバスは宿へ。そこは“不老ふ死温泉”の宿。日本海側でした。しかし何でっせ、百キロ2時間半のという道のりをバスで迎えに来てくれはるってちょっと考えられませんよね大阪に住んでますと。百キロ…大阪から言うと西へ姫路、東北へ近江八幡あたりでっせ。サービス満点でんな。
諸々お子やうちのひととの約束の行き違いで我がは体験しませんでしたけど、海に面した本格的露天風呂は行き帰りを含めて激寒やったとか。なんぼ内風呂でカラダ温めても吹雪の中の移動はキツかったとか。そらそうですわなぁ。
で、どんな湯質やったかですけど、それは茶褐色の塩味強烈なテイスト。ゴクゴク飲んだ訳ではもちろんありませんけど、うどん出汁よりきっと塩分濃度高かったかと思います。
まぁサラサラの無色透明より何となく“有り難いわぁ”と我慢しつつも十二分に浸かって…ただの貧乏性ってだけの話ですけどね。
海の幸中心のバイキングを食べつつ地のお酒を楽しむ…とか記しつつすっかり銘柄忘れてますわ。まぁ美味しかったわそれでよし。歳を重ねるってのはこんな感じなんかな。ま個人差めちゃありそうですけど。
(於:青森県深浦町) あっ、思い出した。お酒は“太平山”。秋田の酒ですやん。
「マイル貯まってるで」ってことで“どこかにマイル”で空旅。北へ。 上六からバスに乗って伊丹空港へ。飛行機もカッコよろしいけど、働いてはる人もみんなカッコよろしいなぁ。給油隊の安全点検ひとつとってもキリッとしていてよろしいなぁ。
八角弁当の小さいヤツ食べつつしばらく待って1時間半ほど空をひとっ飛び。「窓からの景色はまったく見えませんで」な状態の中、着いたところはこんな感じ。 大阪とは全然別世界。そらぁ「悪天候の場合は伊丹まで戻ります」となりますわな。吹雪いている中でもサッと着陸、これもまたカッコよろしいことで。
三泊四日の青森旅のはじまり。初日は青森市内の食堂の様な居酒屋の様なところへ。そこはちょっと“なんちゃって昭和”な空間。外したかなっ…まぁよろしいか、お子がそれなりに反応してましたんで。
(於:兵庫県伊丹市、青森県青森市) “八角弁当”と打つと予測ワードに“まずい”と出よる。アホか。
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『午前10時の伊丹空港で、雑感。』 2022年3月 記
『公道のMAINAMI』 2020年12月 記
過日クルマの運転中に見かけた錆びたブリキ看板。「“ダイキン”に“農業…”て書いてあった気がするで」と戻って確かめてみますれば、やっぱり。
見ての通り、そこには“ダイキンの農業機械”の文字。“性能を誇る!!”のフレーズに時代を感じます。
ダイキンが農機具を手掛けてるとは聞いたことがないので「同名の別会社やろ」と思いましたがそこに記されたマークが、あのダイキンの旧社章。と言うことはかつてダイキンは農業機械を手掛けていたんですね。
ほんまかいなと調べますと、ダイキン耕耘機の説明を当時のカタログとともに紹介してはるサイトがありました。
ダイキンのサイトにはもひとつこれといった説明がないなぁと思いましたがPDF化された『ダイキン工業 90年史』という本の63〜64頁あたりに記されていました。
その資料によりますと、農機具は戦後まもなく農業用発動機からはじめ様々な農機具を手掛けていたものの、不採算を理由に1971年、ヤンマー農機に譲渡したとのこと。400もの特許もその時に譲渡したとありますが、ヤンマーのサイトにはそういう記載はちょっと見つけることができませんでした。
普通の市民にとっては“空気で答えを出す会社”のエアコンの会社ということくらいしか知りませんでしたが、世界一の空調事業以外にフッ素化学製品も世界第二位。全従業員の8割が日本国外で働いているという世界企業とのこと。それを知るとますますこの看板が愛おしく思えてきます。あっ、そう言えば“ダイキン”が“大阪金属”の略やというのも近年知った次第。ダイハツ同様、贔屓にせんとあきませんな。
(於:和歌山県有田川町) 上に置かれた消防用のホース(?)もええあじ出してるな。
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『昭和なプラ看板 37 ● ダイキン ルームエヤコン』 2009年12月 記
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