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2013年11月18日 (月)

堺に残る新泉、金露、都菊、アサヒビールの看板に思う。

 先日仕事で行った堺。帰りしな、道端のベンチに座ってふと前を見ますと、ええ風情の酒屋さんに、ええ看板が。
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 手前のヤナギがまたええ風情を醸し出してますわ。きっとここはそれなりに知られた“観光スポット”なんではないでしょうかね。そこに掲げられた木製看板、そこに記された酒名に、さっき通った商店街にもかつての堺酒の銘柄が記されたプラ看板があったことを思い出しました。
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 “新泉”、“金露”、“都菊”…これらみんなかつて堺で醸されていたという銘酒。平成の今となっては、もうそれをリアルに知る人も少ないのではないでしょうか。
 “新泉”は戦中の企業合同で生まれた会社。戦後灘の“百万両”と合併、“百万両新泉・堺工場”となり、昭和50年頃まで甲斐町西1で醸されており、その生産量は府下最大だった様です。その後、灘に生産を集約、メルシャンに吸収され、阪神淡路大震災で打撃を受けたのち、メルシャンの他の工場で造られていた様ですが、現在はもう発売されていない様です。余談ですが東京は月島のええ居酒屋“岸田屋”には、菊正宗とならんで“新泉”供されていました。
 “金露”は文化3年堺で操業、明治期に灘に進出、戦災で堺の蔵が消失したのを期に灘、魚崎に一本化して酒づくりをしていたものの、あの震災後、経営が悪化、蔵を閉じ、その酒名は味醂のキング醸造に引き継がれ、今は兵庫県稲美町で製品化されている様です。“酒は金露で張りキンロ”…そのフレーズに懐かしいと感じるのも、もう50歳代以上の世代でしょうか。
 “都菊”は安政年間に長崎で操業、明治期に当時の銘醸地、堺に移転。戦後、灘に本拠を移し酒づくりを続けていたものの、その蔵は剣菱の中蔵となり、近くの魚崎酒造の蔵やったところに移転したあと、震災後、どうも廃業した模様です。
 木製看板には新泉と金露に挟まれて“アサヒビール”も旭日マークとともに記されています。朝日麦酒…これも調べてみれば堺由来のビールとか。詳しくはアサヒのサイトを見て頂くとして、このビールの生みの親のひとりが鳥居駒吉という人物で、やはり堺の酒造家出身だった様です。堺発祥の造り酒屋が消滅したいま思うと、ビール醸造に転身した氏の決断は、先を見越していたなぁと思うのですが、どうでしょう。
 “堺”と言えば、私なんかは臨海コンビナートの工場地帯のイメージが強いのですが、南蛮貿易以降、新しいもんにチャレンジし、受け入れて行く土地柄があるのかもしれませんね。詳しく知りませんので、この辺で。

(於:堺市堺区)
堺の銘酒再びと“夢衆”というお酒が“さかい銘醸”というところから数年前出ていたけど、いまもあるんかなぁ?

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コメント

 寒くなりました…こんな日は“酒は金露で張りキンロ”っていかんのが残念…
てっきりチン電から見える奥村酒店で造ってるもんやと思ってました(汗)。

で、堺の鳥井駒吉さんがアサヒビールのルーツ(大阪麦酒)とは知りませんでした。
偶然同姓の鳥井信治郎さんがサントリーを起し、後にニッカがアサヒビールの子会社になるとは面白いですネ。

西宮に在ったアサヒビール、先日二号線走ったらタンクも撤去されすっかり更地になってましたワ(涙)。

投稿: 難波のやっちゃん | 2013年11月19日 (火) 13時05分

  「都菊」は全く記憶に御座いませんが、「新泉」は学生時代に口にした記憶が蘇りました。

 メジャーな一般受けするではなく、聞いたことも無いような銘柄の酒が、希少価値からではなく口に合ったときは嬉しくなります。

 そのような地酒のブームがもうちょっと早く来ていたら・・・と思いますが、逆にこのブームがいつまで続くのか不安にもなります。

 時代と共に人の心変わりのテンポも速くなっている様に感じます。

投稿: 戦後派 | 2013年11月19日 (火) 13時23分

こんにちわ。凄くひさしぶりに来ました。お元気でしょうか?

新泉酒造というのは戦前に堺に十数軒あった酒蔵が戦時中の企業整備令で企業合同し堺酒造㈱となり、戦後に新泉酒造㈱と改名したところですね。 似たような酒蔵が伊丹の大手柄(戦時中の企業整備令で5家の酒蔵が企業合同。昭和20年3月に伊丹酒類興業㈲を設立。戦後に合同に参加した1家が誉鶴として分離独立。昭和43年に大手柄酒造㈱に改名)と老松(戦時中の企業整備令で3家の酒蔵が企業合同。昭和20年2月に伊丹三共酒造㈲設立。昭和45年に伊丹老松酒造と改名)となどがありますね。それともう1つ。西宮にかつて「和源」という蔵元があったのをご存じですか?うろ憶えなんですが、あの酒蔵は戦前に大阪市内にあった大阪三郷の酒蔵(天満組4家、南組1家)と近隣にあった酒蔵(伝法1家、東住吉1家)が戦時中の企業整備令で企業合同して大阪酒類醸造㈲を設立。この時に「和源」という銘柄名を採用したようです。当初は堺に事務所と酒蔵を備えていたようですが、戦災で蔵が焼失し、戦後は大阪府内の休蔵中の酒蔵を借りながら2~3度程転々とし、昭和30年代に西宮に移り、事務所と蔵を新設しました。この間に企業合同に参加した天満組の1家が花房(かつて西宮にあった花房酒造の事と思われる)として分離独立。名前を大阪酒類醸造㈲から和源酒造㈲に改名したのはこの頃辺りではないかと思います。のちに東洋醸造に吸収合併されて、西宮の蔵は東洋醸造㈱西宮工場になりました。

投稿: からす | 2013年11月24日 (日) 16時47分

ちなみに大阪酒類醸造㈲の企業合同に参加した酒蔵は天満組が男山、五郷一、花房、倭錦。南組が錦城(以上は大阪市酒造組合所属)。伝法は松田正宗。住吉は国自慢 (以上は浪花酒造組合所属) です。資料を見てみると天満組4家の酒蔵は今の天神橋筋界隈、南組の錦城は西区、松田正宗は西淀川区伝法(今の此花区伝法の事か?)、国自慢は住吉区西長居にあったようです。てか前回の書き込みで住吉を東住吉と間違えて書いてしまいました(__)


なんか話題から全然かけ離れてしまいましたがすいません(;´д`)

投稿: からす | 2013年11月25日 (月) 04時16分

●難波のやっちゃんさま
ホンマにあっちも鳥居、こっちも鳥居で「何ぞ関係あるんやろか?」と思いますよね。そこにニッカの竹鶴さんが絡んで…余談ですが、来秋の朝ドラは“マッサン”というタイトルで、竹鶴政孝さんとリタさんの物語とか。大阪弁しゃべる初の外国人ヒロインは…ハンソンさんしかいませんな、イーデスの。
で、西宮のアサヒ、もう広大な更地になりましたか。「まだ吹田がある」と言ってもさみしいもんですね。

●戦後派さま
“新泉”を呑まれたことがあるんですか。いいなぁ。どんなお味のお酒でした? 気になるところです。
私は最近、「普通のお酒っておいしいなぁ」と思う様になりました。やっぱり売れてるお酒って、ようでけたるなぁって感じでしょうか。パック酒も馬鹿にできんなと。ただやっぱり造り手が見えるお酒の方が、気分的にほっこりしますけれどもね。

●からすさま
あれこれご説明を有り難うございます。きっとネット上でこの書き込みが、いちばん詳しい記述となると思いますね。有り難いなぁ、おおきにです。しかしホンマ、よぉ調べてはりますね。なかなか見つかりませんよ、こういう歴史の記述は。
“和源”は、西宮に確かにありました。昭和30年の酒造家名鑑には、茨木市に大阪酒類醸造としての記載があります。この場所は、多分、艶正宗や白精のあった上泉町のことやと思います。
またゆっくりコメント読ませてもらいます。

皆さんコメントおおきにでした。

投稿: 山本龍造 | 2013年11月25日 (月) 18時59分

お返事ありがとうございます。

新泉酒造はかつて灘五郷にあった都菊、金露、百万両新泉が元は堺の酒蔵だったということを知って興味を持ち、色々調べていくうちにその存在を知りました。和源は廃業した立ち飲み屋の軒先に貼ってあった「灘の生一本 和源」と書かれた古いブリキ看板を見たのがきっかけで興味を持つようになりました。

新泉酒造に関しては堺市立図書館ホームページ内のデジタル郷土資料展「資料で見る堺のものづくりと歩み」堺と酒造の記述。伊丹の大手柄、老松は伊丹酒造組合ホームページ内の蔵元紹介。和源酒造は「大阪の酒造業 その由来と変遷」 (多賀谷 陳/編 和源酒造,1959)、企業情報@wiki-東洋醸造(合併履歴に1963年10月1日和源酒造株式会社 と記述)、全国酒類醸造家名鑑(醸界タイムズ社)1971年度版、1972年度版(和源 東洋醸造㈱西宮工場 と記述) を参考にさせていただきました。ちなみに「大阪の酒造業 その由来と変遷」の編者の多賀谷陳さんという方は大阪酒類醸造㈲設立時に企業合同に参加した7家の酒蔵のうちの1家の方で、参加以前は住吉区西長居町で「国自慢」という冠名のお酒を作っておられた蔵元さんでした。

「大阪の酒造業 その由来と変遷」第二部 二、和源酒造有限会社 によると、西宮に酒蔵を建てたのが昭和33年。それ以前は府下の休造蔵を求めて転々としたとの記述がありますから、茨木にあったのはその時期のようです。


そうですね。今の上泉町6丁目辺りじゃないでしょうか?


長々と文章失礼しました。

投稿: からす | 2013年11月26日 (火) 00時17分

からすさま
ネタ元の紹介を有り難うございます。以前はよく中央図書館なんかに行ってはマニアックなことを調べていたのですが…
その頃いくつかの資料をコピーしておいたものが、今も役立っています。そんな中に大正5年の府下醸造家リストもあって、そこに確かにありますわ、お書き頂いた“国自慢”の多賀谷商會も。当時325石造っていたとあります。ちなみにだいたいの蔵が300〜700石という中、金露は5,025石造っていたというから驚きです。
大阪酒類醸造が茨木にあった件ですが、私は上泉町9丁目あたりやったのではと思っています。随分以前…もう30年ほど前ですか、あのあたりへ探索に行った折、そこに酒蔵がありまして「お!これは」と覗きますれば中は、屋根付きの月極駐車場と化していました。そこを和源が借りてたのではないかと推測します。
最後に“花房”ですが、今も南森町に、多聞の看板を掲げた“酒房花房”という居酒屋がありますね。一度行って話を訊いてみたいと思いつつ、行かんままになっています。

投稿: 山本龍造 | 2013年11月29日 (金) 15時51分

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