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2013年8月15日 (木)

八尾、高安山麓に残る掩体壕

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 掩体壕…“えんたいごう”と打っても変換されない様な構造物が八尾の山麓にあります。幼少の頃、旧国道170号線を走るクルマの中から3つ4つは見えており、「あれ何なん?」と親に訊くと「あれはな、あこに飛行機入れて隠してた格納庫や」と教えてもらったもんです。「こんな山麓からどうやって八尾飛行場まで運んだんやろか?」という疑問は、今も消えません。私が高校生の時でもまだ、確実に2~3基は残っていて、うちひとつはかなり頑丈そうなコンクリ構造物でした。
 それらの構造物を“掩体壕”と言うと知ったのはずいぶん後になってからだったように思います。そういう正式名称があったとはちょっとびっくり…それが何て名なのかとか考えることもないぐらいに中河内のこのあたりでは普通の光景でしたので、「へぇ」と思ったのでした。
 高安山麓の変わった光景として「ずっとあのまま残ってるんやろ」と勝手に思い込んでいました掩体壕ですが、ネットで調べる限りどうやらもう一基しか残っていないとのこと。2年ほど前所用でこの近くを訪れたところ、たまたまその唯一のこる一基に出くわしました。
 最後の一基…それは高校の頃見たいちばん頑丈に見えたヤツではなく、その近くにあったやや貧弱に見えていたヤツでした。何げに見ていた光景も、最後に残る戦争遺産と思って見ると、確かに不思議なモンが残ってるなという印象を受けます。
 じつは、6~7年前にもここを訪れた事があるのですが、その時に農家の方から聞いたの話では、これを造ったものの、結局使われる事がなかったと言う様なことでした。ネットで調べると、この構造物は鉄筋ではなく“竹筋”とのこと。敗戦間際に造られたものということなのでしょうね。
 この掩体壕は戦後、農作物や農機具の保管に使われているみたいですが、私の記憶では、住居か事務所の様に使われていたところもあった様に思います。金属同様、供出させられた土地に造られたそうですから、農地や宅地になっても仕方ないことですが、何かやっぱり生きた教科書として残ってほしい気もします。
 掩体壕が3つ4つ残っていた幼少の頃って、戦争が終わってまだ20数年しか経ってなかったのですね。それを思うと…よくもまぁいまだに残っているなぁという気もしますが、そら残ってるやろという気も。敗戦から68年、ずっと「戦争は自分が産まれる前の、めちゃ昔にあったこと」と思てましたが、何のことはない、たかだか100年も経たん、つい近年にあったことなんですね。ま、当然のことながら、リアリティはないのですが…

(於:八尾市) 2年ほど前に記したものの、出してなかったテキストに加筆修正してUPしました。

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コメント

  我々の子供の頃にはまだ防空壕は幾つか残っていて、よく理科の教材で作った懐中電灯を持って探検したもんです。

 後で親爺から聞いた話では、直撃でなくても至近弾で地面が数メートル動くそうで「中に居ても土の壁が突進してくるので命は無い」とのことでした。

 しかし、死をもって罪を償っても「永久」戦犯ですか・・・。

 まぁ、一人の命で償える罪に限界があるのか?

 死んだら「仏(神)」さんなんて発想は、日本独特の気休めだったんでしょうかねぇ。

投稿: 戦後派 | 2013年8月16日 (金) 06時13分

 以前にナムダーさんの「河内彷徨」を読み現地を見に行きました。

掩体壕(掩蔽壕)…敵機と交戦する軍用機を隠してどうするんですか?それも最後は“竹筋”製で(汗)。

圧倒的な兵力差・物量差がありながら戦争を継続する。
敵を知らず・己を知らず、精神論と神風頼りでズルズルと、度重なる大空襲そして原爆落とされるまで負けを認めない。

私が生まれた西宮には“紫電改”や二式飛行艇を製造した軍需工場があった為、雨霰と投下する焼夷弾の下を母は大きなお腹抱えて逃げ回ったそうです(怒り)。

好戦的な政府、戦略なき外交・驕る官僚そして煽るマスコミ・雷同する国民…なんだか今と似てませんか!
戦争遺跡と共に語り継いでゆかねば…

投稿: 難波のやっちゃん     | 2013年8月16日 (金) 07時13分

戦争を始めるのは簡単だが、終わらせるのはとても難しい‥

末期の空襲や原爆投下は明らかに国際法違反‼
勝者が敗者を裁くとはこう言う事‥

勝っても負けても両者とも最高責任者は死刑‼
こうとでもしない限り戦争は無くなりません‥

投稿: ん | 2013年8月16日 (金) 10時23分

竹筋ですか?戦争遺跡として残して欲しいけど、今の流れでは構造物として解体せざるを得なかったのでしょうね。

子供の頃、家庭の理由で母方の実家に預けれていましたが、じいちゃんがよく戦争時代の話をしてくれました。

小さな勲章を宝物のように大事にしていたおじいちゃん。

あの頃はまだ戦争が終わって25年ほどだったんですね。

投稿: 阪南市テクノ森田 | 2013年8月16日 (金) 11時22分

まだまだ残っているんですね。佐世保には大きな防空壕を利用した商店街があるのを見たことがありますが。
私も当然残っているものを見てもおかしくない世代なのですが、何しろ田舎、戦時中の遺跡などは全くありません。
沖縄へ行ったときに写真のようなものはいくつか見ましたが。
沖縄はまだまだずいぶん戦時中を思い起こさせるものがたくさんありますね。

投稿: ぽんぽこやま | 2013年8月17日 (土) 03時27分

●戦後派さま
そう言えば母の実家の食堂下にも防空壕がありましたわ。何度もそこへ潜り込んで遊びましたが、いまとなっては「あれで、命助かるつもりやったんかなぁ」という気もします。
ほんま…あれこれ思います。

●難波のやっちゃんさま
きっとナムダーさんの記事を参考にここへも行かれてることやろなぁと思っていました。さすがです。
で…私もやっぱり最近の世論に流されているところがありますね。以前は「平和ぼけの何が悪いんじゃ」と思てましたけれど…。それでもやっぱり踏みとどまらんならんと思います。しかしながら…言わんとこ。

●んさま
いろいろなるほどです。
>>勝っても負けても両者とも最高責任者は死刑‼
>>こうとでもしない限り戦争は無くなりません‥
とくに、この2行に納得しました。

●阪南市テクノ森田さま
>>あの頃はまだ戦争が終わって25年ほどだったんですね。
そうなんですよね。その25年という歳月が子供には「めっちゃ昔」に感じていただけで、たかだか25年前なんですよね。とは言え、復興、繁栄している日本でどっぷり育った者にとっては…やっぱり“めっちゃ昔”に思てしまいます。

●ぽんぽこやまさま
やっぱり八尾に飛行場があるということ自体がもう戦争に直結していることですから、きっともっと探せば残ってるんやないかと思います。和泉の方には何もないのですか…ちょっと意外に思いました。

皆さんコメントおおきにでした。

投稿: 山本龍造 | 2013年8月19日 (月) 16時28分

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